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秋葉系

クマ@獣王記 | 4 of 5

最近妙にオタっぽかったらなんでもかんでも「秋葉系」とラベル貼って安心する仕組みを普及させようとしてる流れが強い気がして、あれはちょっといかがなものかっていうか、どうかと思うっていうか、だめだ。とはいえ気持ちはわかる。きれいな言い方をすれば商売とか文化とか。エントロピーの正義だ。けども便利だし好都合だしめんどくせーからといってごっちゃにするというのには抵抗がある。それはオタクの反対側でもあるからだ。青春のくさいたまの残りかすがまだくすぶっているのか、または寄る年波がおれの背を押すのか。べつに東京ディズニーランドが千葉にあったって、おれは東京にも千葉にもディズニー社にもオリエンタルランド社にもとりたてた愛情はないので反対しないが、オタ分野となれば簡単に割り切ることができない。なにかと闘争し勝利したいとは願わないが摩擦してよいことには素直に抵抗する。

基本的には、呼びたいひとが居るならなんとでも呼べばいいと思ってはいる。そんなもの他人の趣味や都合というものだ。捉え方に不都合さえなければ呼ばれ方に興味はない。けども「秋葉系」は捉え方の不都合だ。秋葉原はそのほかの単語と比べてかなり包括的ではあるが、看板としてはまだまだ小さい。まず土地として電気街は狭い。情報は情報だけで独立させれば土地の広さなど関係なく振舞えるように思われるが、そうであっても実際的なバリエーション可能性が相応に確保されなければ「(地名)系」は成立しない。情物の集積度では都内有数の秋葉原とはいえ、物質側の限界はどのみち避けることができない。だからちょっと待てと。まあそりゃそのほうがなにかと都合よかろうし、あとまたどのような種類のものであるにせよブランドというものは基本的にイカサマであるのだから、そうした虚を実であるかのように扱うことで相乗していく過程はおもしろかろうし(そういうことこそオタの大好物だ)、しかしだからといって精神の表現や、よりどころや、または基づいたり、支柱になったり参加していったりするようなデリケートな側面も持つ可能性を認めるものに対して、ちょっと扱い方が乱暴すぎないか。なんでもかんでも秋葉原に背負わせていれば、いずれ秋葉原は背負わせた重みとひろがりを支持しきれず自己解体しかねない(←せっかくまとめられた頃には「まとめる意味のない用語になっていた」)。それとも、そういうことをやらせたいから無茶してるのだろうか?うー、ていうか問題の原因はたぶん、秋葉原には実体はあるものの主体がないことなのだが、こればかりはどうしようもないんだよなっていうか、そこは問題視するポイントじゃないんだよな。

なにもおれは秋葉原のことを大事に思ってそういうことを考えるわけじゃない。むしろ逆だ。秋葉原「以外」の、秋葉系とラベルを貼られがちなさまざまのもののことを大事にしていきたいのだ。似たパターンを並べると「日本←→東京」「コミケ←→即売会」「オタ←→秋葉原」とかそんなかんじ。ああそうか、これは、情報の量は増える一方でもはや個人(の集合)の力では選択肢や可能性を減らることができないので、ならばたとえば Google 検索の上位以外のサイトを見ることが徐々になくなり最終的には「I'm Feeling Lucky」で満ち足りていくように、情報的に一強皆弱状態を作り出す意思にのっかることで場に対応しようという志向かもしれないわけか。精神的なそれというよりは肉体的なバランス感覚の発動(ゆえに愚かしくもみえてしまうこと)。腐男子の定義のなかのひとつかもしれないというわけか(http://blog.goo.ne.jp/sydnya/e/5ace98566621de0d7e743267cee0ceb3)。ならそれは、めんどくささとか効率化への擦り寄りというよりは、生存本能といったほうがいいのかもしれないのだなあ。

たとえば先日の「FAMILY MUSIC」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20041116#p3)について、ひとに紹介したところ「アキバ系ぽいすねー」と言われて違和感があった。その情報の受け取り→分類→配置の流れは「PSG→ファミコン秋葉原」という一本道だ。まあおれにしたってその回路が一瞬開いてしまったのでそれ自体を批判することはできない。けどもそこで、いやいやそんなわけはないと思い直すことが大事だ。PSG→ファミコンまではこの際まあよしとしよう(←おれの場合の話をすれば「ミヤホンせんせいの仕事には敬意を払うが、ファミコンの洗礼を受けた覚えはない」のでここいらへんも話せば長いのだが)。しかしファミコン秋葉原は全然ちがう。ファミコンは広く薄い。その文化圏 U に包括されるようなひとたちにとって、まるで普遍的であるかのような幻想を抱かせるから偉大なのだろう。秋葉原にも顕れうるが、秋葉原にあるファミコンファミコンの一面に過ぎない。秋葉原は自身より巨大なものを収めることもできはする。フィギュア化によって。現代、秋葉原にはさまざまなオタ文化がちいさくディフォルメされて陳列棚に並んでいる。そしてそのありさまを非オタのひとが見れば秋葉原がすべて包括してるってことでいいやとなりもする。そこまではいい。だがカタログが商品自体に置き換わることがないように、偶像が神に置き換わることはない。オタはオタだからこそそれを知っているし、趣味と信仰の分別もあるのでべつに偶像を偶像だからという理由で破壊したりなどしない。

ファミっ子は全国各地津々浦々に散らばってもおなじ夢を見たからこそファミっ子なのだろう。いとうせいこうノーライフキング」、札幌の洋太と西東京のまことの頭上に君臨した無機の王の名は秋葉原であったか。ちがう。秋葉原もまあ悪くはないが、しかしやはりそれは違うものだ。

…しかしまた別の展開もできるか。

むーん。

こういった自己内でも相矛盾しうるモヤモヤは変容の時代だからこそ発生する。そして時代は常に変容しているはずなので「変容の時代」というのは人生中の常時だ。モヤモヤはいずれささくれにまでなるが、それを過ぎれば徐々に感じなってゆき、やがてそんな感情のことも忘れてしまうが、日記に書いておけば忘れても読み返せるので、こういう感じ方のことは書いておかないとやばい気がするし、日記はいつでも書いておいてよいとなる。書く意味のないことというのはたぶん、最後に読み返したときにも感じ方が変わっていないようなことだろう。