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シリーズ SPAM vs 人類 - SPAM 作文業者に萌える試み のメモ

  • http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20041014#p3)のように、キャラクタ性の成立する SPAM メールの発展として、バーチャル SPAM アイドルのクロスオーバーとかはちょっとおもしろいかもしれないなと思った。SPAM を作文する際に、送信者(仮想)一人でなく周辺の人間関係(仮想)を含めたキャラクタメイキングを行い、適当にあっちこっちに話を飛ばしたり複数のキャラクタを絡めた展開に持ち込んだりして、よりドラマティックな SPAM を提供するかんじ。読み手として VSI たちの関係を推理し、その推移を観測する楽しみ。携帯端末からアクセスできる短編連作小説ノリ。だんだんミステリまはたホラー要素とかが絡んでくる。

萌えは現在発見されている中で最も強い消費酵素のひとつだ。萌えることが可能なかぎり、オタはなんでも消費できる。ということは、SPAM 業者に萌えることが可能であれば、SPAM は問題や悩みではなくなる。問題を問題でなくせば解決もまた不要になる、というあれだ。

一人称が「平田」とか「オブジョイトイ」とかいうふうに、キャラクタ名になっている VSI については、「そういうふうなおもしろキャラ」としての文調上の作為だけでなく、実際に作文している SPAM 業者の心理状態を読み解くヒントだと仮定してみるのもおもしろい。一人称が固有名というのは、たとえば「おれはこの文章を書いてるけど、この文章の発信者は大石早苗で、おれは大石じゃないんだよね、まああたりまえだけど」という基本的な確認を、作文しながら喚起できる書きかたといえる。バーチャルネットアイドルちゆ氏などと同じ、ロールプレイの明示化。「オブジョイトイは」と書き、「私は」と書かない。それに限らず一人称の使い分けは、暮らしのうえでもペルソナの管理キーとして使われることが多い。おれ、わたし、自分、ぼく、某(それがし)、朕など。家や学校や会社や友達同士や家族など、ひとや場や気分で使い分けられる。その判断と行動の主従は曖昧で、相互に影響しあっている(先生はえらいので先生に対しては「ぼく」という、「ぼく」と言った相手には対等の立場から発言しづらいなど)。

SPAM 業者が送信するメールは量として真に膨大だが、その膨大な量には、(特に出会い系サイトの SPAM などでは)種類としての膨大さも含まれており、そして SPAM 業は大企業化しないだろうと推測できることから、量ほどには多くない種類であっても、常に少数となる(すくなくとも多数にはなりえない)SPAM 作文担当者の精神を逼迫しうるとの推測も成り立つ。毎日別人名義で大量に SPAM 文書を作成していれば、自分がなにをやっているのか、どういう意味があるのかとかだけでなく、もはや自分が誰であるのか、毎日適当に作って書いてるキャラクタとどう違うのかとか、ふつうに暮らしてるぶんには揺らぎようのない基礎的な部分が磨耗していってしまい、疲れてきて、いやになって、またはどうでもよくなって、精神的にまいってきて、普段ならやんなくてもいいような確認の手順を、特にそれをやったからどうというようなこともないと理解しながらも、なんとなく踏んでしまうようになるのではないか。それがたとえば「一人称=オブジョイトイ」ではないか。

それと並行して、単純作業を繰り返すと、自分が何者であるのかとかそういうことに大して興味がなかったようなひとさえも、「これは自分の仕事だ」というかすかなサインを混入することで、自我を確かめようとするのではないか、それがたとえば平田 SPAM やオブジョイトイ SPAM のような、べつにおもしろい文章である必要などない SPAM 上に、うっかりよけいな珍文装飾をほどこしてしまうということではないのか、つまり、最近出回り始めた珍文 SPAM というのは、「仕事に疲れた SPAM 作文担当者の脳が自発的に求めた自分のための指走り、ひそやかな脳内糖分補給、「給料分以外の仕事」としての名前のない自己表現」ではないか、という推測だ。

また、あの種の SPAM のテキスト系サイトっぽさから、実際に担当者が元(現?)テキスト系サイト管理者であるかどうかとかそういう部分でなく、SPAM 作文業を長く続けるという状態が、テキストサイトを長く続けるのと似たような影響を精神に及ぼし、結果的に似たような文章として出力されてくるという可能性について注目できないか(根が同じなら実も同じという可能性だけでなく、パターンが同じなら違う根からでも同じ実ができるという可能性も含める)。