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シリーズ SPAM vs 人類 with SF

SPAM は、電子メールであれば同文を一度に大量に(ほぼ)ゼロコストで送信できるという利点を最大活用した戦術だ。コスト的にこそ成立している産業ともいえるだろう。確率は低い。ゆえに効率が悪いともいえる。悪くて構わないくらい大量に、低コストでばらまけるから運営できている。ゴミでもバラまきつづければいずれ誰かにヒットする。ふつうの業者とは違う。ノイズを怖れない。ジャミングを歓迎する。それこそがチャンスだからだ。混乱させて、誤操作が重なって、偶然に、商談が成立するような、そんなものでも構わない。SPAM はなにも差別しない。なにも判断しない。そこには信頼も打算もない。確率だけがある。ゆえにダイレクトメールと似ていながら微妙に違う。それはつまり、カスタマイズへの意識だ。ダイレクトメールは、できるものならカスタマイズをする。できなければまあ、SPAM と大差ない。SPAM はカスタマイズする気がない。いずれこの二つは似たような理想形に近づいていく可能性もなくはない。だけど手段と目的くらいに立ち位置の違うものが、それでも同じものを目指すだろうか。

SPAM 業者はおれを人間扱いしない。彼らが相手にしている実体はリストであり名簿だ(関連→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20040614#p3)。人間扱いとは、互いが(すくなくとも)人間であるという信頼上の関係のことだ。この構図の中でおれという人間は、たまたまそこに関っているだけに過ぎず、おれが人間であるという事実はなんの役割も負っていない。もちろん彼らは人間だろうし、彼らが相手にしているリストや名簿は、その向こう側に存在している(であろう)我々によって保障されているともいえるから、我々と彼らの間には間接的な人間関係がなくもないということはできる。そうであってもやはり、彼らが我々を見て商売をすることはないだろう。コストがかからないからこそ流行るのが SPAM だ。コストをかけていいなら SPAM のかわりに我々を現在悩ませているのは DM のはずだ。相手を人間視する、そこに関係を築こうとするだけでコストは跳ね上がる。どうせごたまぜだからミスがあってもいいのだ。尊厳がかかっていないからスイッチが軽いのだ。人間同士の世界観になってしまっては、SPAM は存在を否定されるに等しい。

SPAM 業者にとって実体がリストや名簿であるように、おれから見える実体は目の前のメールまたは SPAM の流れそのものであって、業者はその付属物、または想像上の遠景でしかない。彼らが人間である必要は、おれの側にはない。それは SPAM 業者はおれを人間扱いしないのと同じ理屈だ。対 SPAM を考えるとき、我々はハンターに追われているわけでもなく、柵に囲われ飼われてすらいない。単に空爆されているだけだ。それも、ベトナム戦争時代のやりかたによって。

それでも、この関係のなさに悲しさを感じることはできる。なにかもののあはれとかそういう。おれにとって SF は、そういった科学や技術がひとの心にどういった影響を及ぼしてゆくのかを見極めるためにある考え方だ。ウラシマ効果で大事なことは、時間の流れに差ができることではなく、それによって引き裂かれた二人(以上)の人間が、その関係について科学的な変容を経験する点にある。ふつうに暮らしているだけでは起こりえない情動のシミュレーション。科学は劇的だ。そしてもはやそうしたことは実際に起こっている。このような、かつては SF が担っていた考え方を、いまはもう SF 以外のなにかの学問やその流れが担っている。おれはそれを持っていない。SF は誰にでも持てるからおれにでも持てるが、それ以上のものを持つためにはまだまだ知力や明晰さが必要だ。それらが大衆化するまでは SF を捨てることができない。