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Bowling for Columbine

理想

TV でやってたので見た。映画館で見たのは一年半前(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20030321#p1)になる。TV で映画といえば、「STARSHIP TROOPERS」の残酷シーンカット(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20040814#p3)はひどかったが、今作に関してはあまりこのシーンがないとかそういうところは見当たらなかったように思う。21 時からはじまって、終了が 23 時半くらいだったから、CM 時間を考慮に入れてもノーカット上映だったのかもしれない。もともと映画館で一回見たきりの映画だから削られてても気付いてないのかもしれない。というかそもそも今作は映像表現自体についてはべつにショッキングシーンとかもないので問題になりようがないってのはある。多分に政治的な映画なのでそこがあれだが、あんまそこいらへんについては興味がないのであとで感想リンクでも探してみよう。

違いがあるとすれば、邦訳の過程で生じるニュアンスのズレと、あとは日本語吹替え声優によるイメージのズレだ。

  • マイケル・ムーア氏の吹替えが山寺宏一氏であるというのはちょっと心配だった。
    • マイケル・ムーア氏といえばなにしろあの体格。いかにものろま善人でございますという風体。対して山寺宏一氏の声は、(「ナッティ・プロフェッサー」などで超肥満体格のひとの声にも実績があるとはいえ)キレと知性が若干のっかってしまう印象。ようするに、三枚目も得意だけど二枚目だってよゆうでこなしちゃう声だから、そこが逆にまずい気がするというか。ムーア氏は、作中で愚直なほどわかりやすい正論しか言わない、なぜならそれは条理で複雑化した巨大な構造体を攻撃するために最も効果的でかつ見えづらい盲点であるからだが、そういう台詞であればこそ、「悪にも通じる知」的なものとは最も遠いようなボーっとした調子で発声されるのがよいのではないかということだ。ちょっとでも知的になれば、それが攻撃の意図として明確になり、そしてそれを戦闘にしてもいいなら、ムーア氏のやりかたの優位は失われるのではないか。
    • 実際マイケル・ムーア氏の体型が、もしも中肉中背であったなら、おそらく今作はこのようなふうには現象として進行しなかったのではないかと思っているし、またあの体型と声でなければ取材の様子もちょっとずつ違ったものになり、というかそもそも氏は今作にあるような戦術では、そもそも今作を撮らなかったかもしれないと思っている。
    • 人間いっこぶんの長所と短所を全部キャラクタ性に落とし込めたやつは成功する。得意な一面だけを強調して売るよりも断然効率がいいからだ(←どんなに優れた一面でも一面に過ぎず、全身ほど多くをカバーすることはできない)。この映画のポテンシャルは、よくもわるくも監督の全身を体現しているだろうと思う。体現型の作品監督の個性は作品性と不可分だ。逆にいえばだからムーア氏は、ムーア氏のようではない方法では、今作のような映画は撮れないだろう。撮れないっていうか撮らない。ずいぶん脱線した。
    • けどまあ、終わりまで見て、無難に演じきったかんじ。あんまそんな心配することはなかったかと思った。
  • マソソソ・マソソソは、元の声自体に価値があるので、あすこは吹替えじゃなくて字幕でいいと思った。なんで吹替える必要があるんだ。どんないい声もってきたってだめさ。だってロックだから。ロックは置き換えられない。ロックは変換できない。ロックはだから、吹替えできない。
  • 敵側の人間の吹き替えがたどたどしいのはずるいな。けど確かにいきなり取材されればオドオドしてしまうのかもしれない(あれはあれでリアルっぽさの表現なのかも)。「敵側」て理解もまたあれだけども。なんつーか、疑問を持たない側?
  • あと最後の対談は、原語ではムーア氏のしゃべりもけっこうどもりがちっていうか、ちょっとオドオドしてるところがあったと思うのだが、吹き替えでは山寺氏によるなめらかな喋りになっててここはかなり印象違うなあと思った。ヘストン氏に関しては、原語でもかなりヨボヨボだったと思ったのであれはああいうものかもしれない。とはいえ、味方堂々、敵オドオドってのはちょっとわかりやすすぎて突撃ってよりはむしろヤラセ感を強調してしまってるかんじ。さしものムーア氏もヘストン氏にはなかなか質問しづらいことがあって、それでも質問するんだーみたいなかんじがあってちょっとそこはよかったのに。
  • ていうか原語だと、その前のコロンバイン高校の(元?)生徒のひとたちが(←けっこうムーア氏がけしかけてるニュアンスもあったと思う)がんばってスーパーマーケットに抗議行動を起こして、それが一定の成果を挙げたことを受けての「彼らは(K マートを向こうに回して)頑張った、だから次は僕の(ヘストン氏を取材し、コメントを取る)番だ」というふうな決意があり、しかしムーア氏はヘストン氏から決定的なコメントを取ることはできなかった、ああ彼らは成果を出せたのに僕は出せなかった、残念、くやしい、すまない、といような感情が、あのヘストン氏の家の前に被害者女児の写真のプリントアウトを貼って帰るという行動に表現されている気がして、そこはまあなんというかリアルな世の中の渋いところだなあと思ったし、この映画がドキュメンタリー的であるのはまさに、ひとつひとつの取材によって浮き彫りになってゆく事象のフラグメントが、そうした心情の表現に対して集約されていくからなのだろうと、つまり、あの柱に貼られたプリントアウトはこの映画ボーリングフォーコロンバインのフィルム自体を集約しており、それを貼るという行動は、映画を公開するという行動と同軸のものであり、なんともひ弱で品がいいともいえないこうした行動の、しかしそこに込められた心情は、なんであれすくなくとも偽りではなかろうという点に、褒められる部分があると思ったのだ、が、そこいらへんのおいしい部分が TV 放送版ではいまひとつ解釈しづらくなっていた。

作品の中身についての感想は、書こうかなあと思ったがやめておく。