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KILL BILL vol.1(再)

映画感想日記とかファンアートとかで、やたらと「ゴーゴー夕張」て単語が出てきていたので、ああこれはあれか栗山千秋氏扮する鎖鉄球女が大活躍するシーンで印象的な背景物として段ボールとか看板とかそういうものに「ゴーゴー夕張」というへんな単語がプリントしてあってわけわかんねーよとかいうアレなのかなと思っていたら、直球で「ゴーゴー夕張」という名のキャラクタだったとは予想外。確かにこりゃおもしろい絵だしゴーゴー夕張さいこーとしか言えない。

パルプフィクションみたいなかんじでわりとそれぞれの話がそれぞれにブロックとしてまとまっていた場合、作品内で時間が行ったり来たりしていてもまあ大雑把な流れを一回で把握できるというか、ブロックごとに納得しつつ封印していくことで一本のきれいな流れを受け止めることができるけども、キルビルのようにそれぞれのブロック内で完結することなくずっとつながっていくのに時間が行ったり来たりする場合、しかも vol.1 とあるように全体が未完である場合、これまでにあまり強く意識したことのないような状態で映画を見ることになってしまっているのがおもしろかった。つまり、「とにかくこの女はビルという男をぶっ殺したくてしょうがなく、それもただ殺すだけでなく順番どおり残虐極まりない方法で復讐しなければ収まらない」という、テーマというか前提だけが意識に残り、それ以外のことをブロックを移るたびにどんどん置いていってしまう。見る前も、見ながらも、見終わったあとも、けっきょくどういう話だったのかおおまかにはわかるものの細かくは記憶しづらいようにできていて、それで構わないかんじ。気にすんなといわれれば気にしなくてよいということであり、気にしない。メロディがバラバラになってリズムだけが支配している。ある意味科学的な映画かなーと思った。たとえばネットワーク上にバラバラに拡散した主人公の走馬灯情報についてGoogle検索をかけて、1位から順番に流しているかのような。話が絡むと(←時系列がバラバラなので、ほとんどすべての「ああそういえばそうだった」が、「伏線」として理解されてしまう)思い出すんだけどメモリ上に置いときづらい構造なんだよなー。情報の出し方としては、コントロールし(され)やすいといえばし(され)やすいのか。無駄(と規定した部分)に無茶苦茶凝ってる映画だなー。

というかそもそも主人公の名前もわからないし。そういうことがとても重要なんだろうけど必要のない映画なんだなと。