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凹村(おうそん)戦争

おれはこの漫画が、おもしろいかおもしろくないかわからない。

ウエダハジメ氏の「Qコちゃん」はわかると言えるというか、わかっていないのかもしれないが、客体(←実体は存在しないんだけどなんとなく存在しているだろうと気分的に信じられているもの)やその他の主体(作者のひととかコアなファンのひとたちとか編集者のひととかが想定する理解)を鼻で笑えるだけの主観を確保できるんだけども(=誤解せざるをえないのなら誤解は存在しないのと同じ)、「凹村戦争」の場合どうも主観が持てないみたいだ。おれのこころのオートフォーカスが、ずっとぼやっとしたまま。像ははっきり結ばれているように見えるんだけどもそこでフォーカスが固定されない。またはぼんやりしているように見えるのだがそこが適正な距離だと判定している。そういう繰り返しのまま最後まで読んでしまった。主観を持てなければ、漫画を読んだとはいえない気もしつつ、あんまそのへんを重視する漫画の読み方って正直どうかと思うという気分もあるので、なんというか、たとえばおれの場合における「凹村戦争」のような、おもしろいかおもしろくないかわからない漫画を読むということは、たまにはいいことだよなと思った。日記で感想書いてると、感想病というか、おもしろかったかおもしろくなかったかとか、なんでもいいけども、なんらかの評価のタグを作品にくっつけようとする癖がつくわけだけども、そういうのを厳密に決めすぎてそればかりやるようになるとそれはそれで読み方の背骨のようなものが歪んでいってしまって不幸なので、たまには自縛から開放しておかないとやばい気がするというか。

というかこの漫画をわかりながら読むひとも居るんだろうなあと思ってみれば、日本結構広いよなというか、思えば遠くへ来たものだなおれもというか、または立ち止まっている例なのかもしれないが、なんか世代が一周して出てきた似たような同じような違うようなものを、一周回違っているひとには同じものなのだが理解できないとかそういうあれなのかもしれないのかな。おれにとって岡崎京子氏が大丈夫で西島大介氏が大丈夫でないとかそういう(「大丈夫」て言い方もどうかと思いながら)、比べるようなものではないかもしれないけど、なにしろわからないのでこれは何と比べたらいいのか、というかわかるときにもわからないときにも、とりあえずなにかと比べることで理解の足がかりとか足しとかにしてしまうというやりかたも、そればかりやっていてはつまらないので、比べない読み方を求める漫画もあるよなというか、まあでもそれも人柄や、度合いや、使い方の問題とはいえそうだけど、なんにせよ単純じゃないのだなと思うが、ばかやろう単に複雑にしていくだけならフンコロガシにだってできるんだからなるべく長くある種の単純さを追求していかないことにはグダグダになってただ単に感覚するということさえもむずかしく複雑になってしまってそれはやりきれないのだみたいなアレが。