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本の厚みと資料の重さ

星の、バベル

最近、新城カズマ「星の、バベル」上下巻を読んだ。

新城カズマ氏らしいかんじでおもしろくて、しかしこの内容を詰め込むには上下巻って短くないかとか思ったりしたけどまあ逆に三冊四冊になっていたら食い応え相応に話がひろがりすぎちゃって勢いで読めなくなっちゃう部分もあるかもしれないしこれはこれでいいのかもなとか思ったんだけど、まあそれはそれでいいとして、考えてみればこういうかんじの小説を読むっていう行為をしばらく意識していなかったことに気づいた。

なんていうのか、いろいろ調べたり勉強してから考えて書いてある小説。ことに資料系に比重の寄った部類。なんだか最近あんまりこういう小説を読む機会が多くなかったような気がして、いやいやそうじゃなかったとふと初心にかえった気分になった。「星の、バベル」だけじゃなくて川端裕人「夏のロケット」もそうだった。

そういうんじゃなくて、筆走った勢いとか手癖だけで書いてる小説とか、いろいろあるし、それはそういうものとしておもしろかったりするわけだけども、明らかに読んでる最中に使ってる脳みその経路が違うので、そればっか読んでてもいかんわけだな。あっちもこっちも刺激しないとマンネリになる。まあマンネリも、いいんだけど(それは贅沢な悩みなのだからそれ自体楽しむことができる)、マンネリのド真ん中にあることに気づかずに居るのは悲惨なので、今回自覚できてよかった。「夏のロケット」といえばなんのかんので最近おれ内ロケット熱も再燃してきたことだし「ロケットの夏」も遊んでみるかなあ(王立科学博物館のやつもちょっと欲しい)。ちょっとどうしたものか。

それにしても思うのは、ロケットものを書こうとするときの資料集めのむずかしさだ。できることは全部やる、買える資料は全部買う、入手できない資料や談話はコネや職権濫用で掴み取る。もうとにかくがむしゃらにやるしかないんだろうなっていうか、たぶん国内のロケットオタのひとたちが抱えているような膨大な知識体系などというものは、方々から集めた一行マメ知識程度の(それさえも苦労の結晶である!)セルを自家結合させることによって巨大に編み上げたものしてあるんじゃないだろうか。そういうふうにしてしかいまのところ、ロケット自体に対して詳しくなっていく方法がないような気がする。

まあ最近なら、ロケットに関する資料とかわりあい入手しやすくもなっただろうけど(日本語の資料はまだまだ少ないんじゃないかなと思う)、そうは言ってもたとえばそれこそロケットものを書くためにとりあえず最低限押さえておくべき知識を効率的体系的に得たいというような虫のいいはなしが通用しちゃったりするような甘い世界ではないだろう。もともと対読者向け知識提供の「作品」ならそれなりにあっても対作者向け知識提供の「豆本」的存在なんていうものはいつだって希少でみつけづらいものだし、国内ロケットオタ入門書を書くなんていうのは、よっぽど勝ちが見えていないとできない挑戦だろう。そういう点で、近年ではたとえば笹本祐一氏の活動などはたいへん偉大なのだなあと思った。趣味をまるだしにした人間は無敵だ。