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オタはなにをやってもオタ

「ダメなやつはなにをやってもダメ」は真とはいえないが現実的には偽であるとは言い切れず、まあなんというのか、怒った相手からまじめに問い詰められた場合などを除いて普段世間でわりあい通用しがちな考えかたのひとつだ。あらゆる角度から検証してすべてにおいてダメなどという人間が存在しえるはずもないが(最悪でも「ダメである」こと自体を評価する方法の類を探すことはできるんだし)、しかしその「あらゆる角度」というのが曲者で、現実はそんなに幅や奥行きがあるようなものじゃないのでダメなやつに対する視点は結果として大してかわり映えしないような角度調整の余裕しかないのが実状でもあるわけだ。というような考えを、おれはオタの周辺に対しても適用可能だと考えている。オタはなにをやってもオタ。真ではないだろうが偽であるとも言い切れないだろう。ようはそれをどう使うかだ。

ようやっと小島麻由美「愛のポルターガイスト」(http://www.ponycanyon.co.jp/kojima/5th_al/)を買ったよーなんか今回エロ度が増してるかんじだねーとか電話してたら「小島麻由美聴いてるなんてまたオサレサブカルっぽいすな」とか言われたので君はまたよくわからん偏見をもっとるねとか返しつつふと上記のようなことを考えた。おれは間違いなくオタだ。オサレサブカルではない。オタ以外の別のものになるつもりがない以上、おれはそれにならない。

この際は小島麻由美氏の音楽がどういった層に好まれるかとかそういうのは関係ない。おれはオタで、オタはなにをやってもオタなので、ということはおれはどんな音楽を聴いていようがオタであり続けるはずだ、つまりおれは今回「小島麻由美を聴いているオタ」をやっていたわけで、小島麻由美氏の音楽を聴くという行為によって付随していくさまざまなフィルタやイメージはおれを素通りするはずだ。

外からの刺激を一次要因としてオタは変質しない。オタは自分でしか自分を変えない(というか、変わったことにしない)。そして、自分で自分を変えるつもりも、ほとんどない。だからオタはなにをやってもオタが偽ではないと言える。おれはなにをやろうと「○○をやってるオタ」以外にならない。歩いているオタであり、食っているオタであり、排泄しているオタであり、寝ているオタだ。他人に作られた環境に培われたアイデンティティ(おれ=オタ)ではあるがおれはそれを「現在すでにこれはおれのものだ」と信じ込んでいる。おれの永久帰還装置(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9976485557)というわけだ。実体として存在する場合もあり、存在しない場合もあるが、これある限りおれはどこへいってなにをやっても必ずオタである自分を忘れることがない。

  1. …というようなグロテスクな自己愛を持っているから、おれにはまだいまどきのわかいひとのセカイ系の文脈を読み解くことはできるはずだ、たとえ共感を得ることはなくても。
  2. …というようなことを考えるということは、おれの無意識がオタを強く意識していないといずれそれを失うぞとおれの意識に警告しているということなのかもしれないので、ほっといたら今後おれはオタでなくなっていく危険があるのかもしれないなあとちょっと不安になった。オタ以外のアイデンティティなど特に用意していないのでオタじゃなくなったら困るな、現実を判断する基準を失う。まあ肉体ある限り認識などは自然に生まれて消えるものだと思うから、どんなことになってもどうにかはなるはずだから心配するようなことではない。人間の存在はあぶくのように消えたりしない。

ところでレコード屋でもらうポスターの巻き込みっぷりはものすごいものがあるなといつも感心してるんだけど、あれはもしかして自動ポスター巻き機みたいなものがあって n 枚 / 分とかで処理してるんだろうか。もらったことあるポスターはどれをとってもとてもじゃないが人間業とは思えないくらいにギチギチだ。いや人間業だからこそああまでやれてしまうんだろうか。CD パッケージ工場に居るという、目にもとまらぬ早業でケースに CD を一枚一枚手で入れていくおばちゃんたちのような異能集団が、今日の日本のどこかで。