オタサークルの同窓会的なものに参加
大学時代に幽霊会員として参加していたオタサークルの、同窓会みたいなものに参加した。おもしろかった。事前、もうちょっと近況みたいな話をする会なのかなと思っていたのだけど、実際にはほとんどせずに、延々オタトークに没頭してしまったので、なんだか申し訳ないような気分にもなった、が、まあおれはおもしろかったので、いい。
あんま書くことはないので、OFF 会作法関連のメモでもしておく。
- OFF 会は、「自分が楽しむことができるかどうか」を自分の責任に帰する、というルールで考えるほうがやりやすい、というか、他人に楽しませてもらう気まんまんのマグロなひとをケアする余裕が場に常に備わっているとは限らないのだから、そこは「善意折込の無保証」でやっていかないと、気配りできるひとから順に義務的に疲弊して、アンフェアになってしまう。だから、できることのうちやってもいいぶんだけに手を出しつつ、思うようにしか振舞わないのが正解だ。
- マグロの世話をするのは誰にとっても鬱陶しい、という一事さえなければ、わざわざ自己責任みたいな態度を強調する必要などないのだけど。マグロ問題についていえば、自分で自分をたのしませる(おもしろさを探す)モチベーションがないなら、OFF 会でなくトークイベントとか上映会とかに行けばよく、場の選定が間違っている。飲み食い代以外に、他人を楽しませるために参加しているひと(イベントの主催者や出演者など)に余分の金を支払うべきだ。OFF 会は、そうではないので、各人が自分勝手にやってよい。ただし、たんに自分勝手にやるだけなら、わざわざ会合をやらなくていいという話になるので、「それぞれが、それぞれの欲望に基づきながら、互いの欲望に見合った共犯的なコミュニケーションを模索する」みたいな態度が、おそらくは上等ということになる。
- というか、興味がないとか、あんまり参加したくない OFF 会に参加した場合、だいたい失敗する。やめといたほうがいい。おばあちゃんのライフハック。
- そうしたマグロ問題を排除したうえでのシチュエーションとして、たとえば「会場のすみっこでつまんなそうに携帯電話いじってる」みたいな行動は、おもしろがれないタイプの会合に参加してしまった己が迂闊さについての敗戦処理として捉えることができ、十二分に妥当な態度だと思える。ていうか「あ、やべーこの場の話おもしろがれねー」と思ったときの暇潰し用に、文庫本や携帯ゲーム機やその他ガジェットをポケットに忍ばせて OFF 会に参加するというのは、最低限のダメージコントロールだとさえ思っている。ある程度は数こなさないとシーンの体感みたいなものが得られないという事実のうえで、ちょっともうどうしようもない状況に遭遇してしまう確率ってゼロじゃないし。まあ、そうした緊急回避アイテムに頼る頻度が高いようだと、自分の OFF 会参加スタンスを疑ってみたほうがいいわけだけども。
渋谷は結局、用事がなければ来ることのない街のままだったな。
インターネット言説に巻き込まれないほうがインターネットは楽しい
「お前 1000 冊読んでるか?」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060414#p1)関連。なんかこの事例、その後みょーなかんじに波及して、いろんなひとの諧謔芸のダシになったみたいで、元発言の SF 界隈のひとたちや、こういうのでゲンナリするタイプの若オタのひとたちに悪いことしたなーと思ったりしている。実際「どうせ 1,000 冊も読めないし…」みたいなかんじのひとを 3,4 人、目視確認した、OFF 会で。
- 「SF を語るなら最低 1000 冊読んで来い」みたいな言説を前にして「むかつく」「へこたれる」の二択になってるんだとしたら不幸。スペースデブリにまみれたインターネット前提脳。言説を唱えるのはひとの勝手、であれば、それをみてどう思うのも自分の勝手、そしてこれが重要なのだが、インターネットにおいて、なにかの言説に反応することは、その言説を裏支えし、猥雑な粘りを伴って結果的に強化してしまうことに結びつきやすい。つまり、「これはどうでもいい」「この言説はクソだな」みたいなかんじに思ったなら、決してその感想そのものをネットに再放流してはいけない。「どうでもいい、とわざわざ主張するからには、そこにはどうでもよくない何かがあるのかもしれない」「強烈に否定したくなるほど、逆方向に魅力的な言説なのかもしれない」みたいな勘繰りが勘繰りを呼び、ムーヴメントを大きくしていく。
- 第三の道、とてもかんたんな話で、スルーしとけばいい。グダグダうるせえ連中なんざ放っておいて、手前で「1,000 冊読んでないけど SF 語るぜ界隈」とかでも形成すればいい。べつに大した努力は要らない。作ろうとしてみて、賛同者が出てくれば形成されることもあるだろうし、形成されなくとも、まあそれはそれで構わない。「彼らに与さないでいること」に意味が生じる場面を待ちながら、自分なりの毎日を送っていていい。
- あと、そんなふうに毎日コツコツ SF を読んでいくのに従って、「1,000 冊読んで来い」的な心情がだんだん染みてきて、かつて狭く暗かった視界が徐々に開けていく感覚みたいなものを得ることだって充分ありえて、それならそれでもいい。生き方に正解はなく、読書経験に善悪はなし。どうなったって悪くはない(そのかわり、いいとも言えない)。
- …というのが個人の側の処世術の話で、ここから先は脱線。
- こんどは話をひっくりかえして、そのような個人を含む共同体の中で言説をコントロールしていこうという話になれば、このような事例集から「肯定でも否定でも関係なく、とにかく読者から反応を引き出すことで、さらなる読者の再反応を誘発して、それによって言説の生み出した重力・運動圏に、より多くの読者を巻き込んでいく」というデザインこそが上等だ、という方法論が導き出せる。ようするに、プレイヤ側のルールは「くだらないものに反応したら負け」で、ゲームマスター側のルールは「なんでもいいから反応させれば勝ち」。インターネットのややこしいところは、このプレイヤとマスターの役割は参加者全員が兼任していて、瞬間瞬間でロールが入れ替わったりするあたりなんだが、まあ以下略。
- だから、ダメな扇動手法として「これが正解だから、それに従って前進すべき」みたいなロードマップを掲げて、正しさの共有、理想へ向けた連帯で何らかの目標を達成する、みたいな方法を挙げることができる。考え方として清潔でいいかんじなんだけど、説明・理解の双方向に高いコストがかかるので、必然的に伝播範囲が限られる。インターネットには向かない。そうではなく「接触自体を拒絶しないと、自分でもコントロールできないうちに、自動的にそうなってしまう」のが理想。
- かんたんにいえば、「中二病」とか「非モテ」とかの用語が挙げられる。これらは、意味が散々ブレまくりながらも、それらに関してなにか言いたがる人間を多数巻き込んでふくれあがり、そして一旦そこに関与してしまえば、「なんとなくそこいらへんにありそうな問題」を、すべてそれらの用語越しにしか考えられなくしてゆく効力を持っていて(←それらの用語を使わないほうが整理された説明が可能だったかもしれないのに)、一度引っかかるとなかなか抜け出せない。
めんどいのは、たのしくないので、あんま他人事に親身になりすぎるのは考えものだ。親身といっても、ネットごしだけでは限度があるんだし。