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最近のインターネット

まとまりなく。

  • インターネットコミュニケーションを加速させるべく消費者に焚き付けるモチベーションとしては、いまだに「俺を(たくさん)褒めてほしい」「俺の意見に(多くのひとが)賛同してほしい」あたりが基本で、そこに社交がくっついてくるかんじなのかな。「正しい意見が共有されるべきだ」とか「俺の仕掛けで皆を振り回したい」みたいなタイプの欲望は結構レアっていうか。
  • 「抜きん出て優れた意見は注目されやすい」「妥当性の高い意見のほうがより多くの賛同を得やすい」あたりは方法に過ぎなくて、凡庸でも誤りでもそれが偏りだけで注目されうるのなら、質の吟味などどうでもいいというひとは結構居るんじゃないだろうか。
  • で、この種のネットユーザと「注目度を定量化できるサービス」の組み合わせは最悪で、癌細胞のように彼らのためのツールと化していく。当然、それがウケるというのは、現在定量的に可視化されている読み手側も、文章の内容なんぞどうでもいいと思っているということであり、共犯関係というわけだ。かくしてフォルクソノミーは失敗する、というのが日本のインターネットが学んだ「共鳴する残念空間」みたいな顛末。
  • それでもなお、そうした状況は「注目されうる!」というふうにポジティブシンキンしまくった解釈によりライフハックされる。評価経済とか何でもいいけど、「経済」と名がつけば大概は怖いものだな。
  • もっとも、日本のインターネットはそれほど香ばしいとは思われない。「注目されたい」が即ワナビー的に繋がっているわけではなく、なんかこう「自分の有用性」みたいなものを確認したいという素朴な欲望も大きいんだろうと思っているので。
  • あと自己診断としての「正しい意見が共有されるべきである」派には、当然「自分の意見こそが正しいのだから、自分の意見こそが共有されるべき」という、似非派閥が混入しているので、彼らを振り分けるための自己検証として「自分の意見よりも正しい意見を常にネットで探している」という態度は重要だと思っていて。だから、この派閥のひとにとって、インターネットはとても有用であるべきメディアだ。で、有用であるべきなのに Google 検索結果がノイジーになってゆく世界というのは、結構苦痛だろう。
  • なんというか「自分は、ちゃんとした材料があって、ちゃんと考えたら、正解を導き出せる」という根拠のない万能感みたいなものって、市井のみんなはついこないだまで誰でもが持ってた感覚なんじゃないかなと思っていて。…と書くとなんだかへんなかんじだけど、ひっくりかえすと、「自分がちゃんと考えて導き出した答えが正解ではないかもしれない」みたいな疑念をいつまでも手放さない態度って、ひとかどの人物として横丁のご隠居的なポジションを得ているひと以外がやったら「それ強迫神経症か何かじゃね?」とか言われかねなかった文化エリート的スタンスなんじゃねーかなと。で、そうした状況が具体的にぶち壊れる可能性を拡げたのがインターネットの功績のひとつだろうと思っている。
  • 素朴なかんじのひとが、よかれと思って自分の(一般的には極端な)意見を説教型のテンプレートに載せて意見発信してみたら、ソーシャルスクラムで猛烈にバッシングされて「えっ」とかなるのは、いまでもよくあるし、これからもなくならない光景だろう。まあ「よかれと思っているのであろうこと」自体、ソーシャルスクラムを苛立たせる要因のひとつなのだろうけども。