なかなか記憶力が「頭のよさ」から除外されない
科学の進歩と共に記憶力はコンピュータとかにアウトソーシング可能になっていくので、物覚えがいいだけの人間を「かしこい」とは呼ばなくなっていくよね、みたいなビジョンが往年ネットオタ界隈ではそれなりに提唱されていたような気がしていたのだけど、結局のところ、一度会ったひとの顔と名前を一致させ二度目に会ったとき即座にそれを引き出せるひとは優秀だし、知識の応用を考える際にも応用できるだけの知識の質量と展開速度は必要とされるのだし、00 年代の終わりを迎えても、まだまだ記憶力はかしこさの要件として手放せないかんじだ。これは、もともと物覚えが悪いうえに経年劣化でひどくなってきているおれにとってはだいぶ痛手だ。遅い。科学遅いよ。
まあ一応科学も頑張ってはいる。やっぱデジタルガジェットの普及は大きかった。コンピュータに知識を溜め込んだり、インターネットから情報を引き出せるようになっても、肝心のコンピュータ自体の取り回しが悪かったので、いざというときに情報を取り出せない、みたいな状況は、モバイルのおかげでかなり潰せるようになった。電話になんでも入ってる、入ってなくとも引っ張ってこれる、そういうふうになってきた。とはいえ、まだ遅い。どんなに恵まれたシチュエーションでも十数秒はかかるだろう。これはコミュニケーションを考えるうえでは致命的だ。会ったひとの顔と名前を思い出すための所要時間として考えると、お話になっていない。パームトップ経由で展開できる情報量はたかが知れてるので、捻り出せるアイディアも手のひらサイズに留まり、妥当性を保障するような分析などは不可能といっていい。やっぱ何らかのチップを脳に埋め込んだり、うなじのあたりに USB ケーブルぶっさしたりしないとダメだ。それは怖いな。サイボーグ化すること自体がではない。サイボーグ化するのはいいとして、自分の身体が初期ロット化してしまったり、規格の旧式化により結局ポンコツになってしまうことが怖い。換えが利かない生身の身体、どうせなら長く使えるほうがいい。とか考えはじめてしまうと、物事は前に進まない。困ったものだ。
ともあれ、非同期的にであれば記憶力はある程度補完可能になったから、人間が記憶力という性能を「ライブパフォーマンスとして」必要としていく、というように方向づける程度には、科学は人間の記憶力を追い立てはじめてはいる。かしこくあるためにも、おもしろくあるためにも、柔軟な即応性は他人より高い記憶力に保障される。知はやはり身体能力だ、というふうに回帰していく、そのことがいいのか悪いのか、おれにはわからないが。生活のすべてにおいてライブパフォーマンス的な場面から退却するという選択は、たぶん不可能なので、おれとしては科学の進歩に期待しておくしかない。