matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

プリキュア 5 をどうおもしろがるのか

おれがプリキュア 5 おもしろいおもしろい言ってるのには、もちろん死んだ鯖の目で日々アニメ鑑賞をしているロートルの腐った心眼にはプリキュアブリリアントすぎるわけじゃよ、などといった単純な筋合いだけではない。が、ちょっとまだ整理がついてないので適当に書き出してみる試み。

プリキュアとはパチンコアニメである。

  • …と書いてもよくわからんな。もうちょっと詳しく書き直すと、「登場人物が麻雀をしている様子ばかりが描かれる麻雀漫画というジャンルが存在し、同様に登場人物がパチンコしている様子ばかりが描かれるパチンコ漫画というジャンルが存在する(きちんと区分すればパチンコ漫画と書いた中にも「パチンコ漫画とパチスロ漫画は別」とかの筋合いがあるのだろうが、ここでは印象論寄りの大雑把な話しかするつもりがないし、そもそもパチンコ / パチスロ漫画についてあんま詳しくないのでここでは区別しない)。この二つは傍から見ると似たようなジャンルの漫画と見えるかもしれないが、麻雀業界とパチンコ業界の成り立ちや構造をそれぞれ反映していることもあり、そのジャンルに通底する骨格や紙面の様相ははまったく別種のものといっていい。で、アニメのプリキュアをここいらへんのジャンルに見立てて判定すれば、これは強いていえば(麻雀漫画というよりは)パチンコ漫画的な思想で作られているパチンコ漫画的なアニメである、といえるかもしれない」というかんじだ。
    • 余談そのいち。麻雀とパチンコは、賭け事という点で共通していて、形態が異なっている。麻雀は牌を媒介とするマルチプレイ形式の客 vs 客(PvP)で、胴元は場代を徴収する。パチンコは筐体を媒介とするシングルプレイ形式の客 vs 胴元(PvM)だ。したがって麻雀漫画は魅力ある個性的なキャラクタを前面に立てた非日常的な勝負・対決のドラマを描きやすく、対してパチンコ漫画は読者から共感を得やすいようなパチンコ愛好者の日常生活ベースの話になりやすい、というかんじか。大雑把にまとめると「麻雀漫画は麻雀愛好家を挑発し、パチンコ漫画はパチンコ愛好家を慰撫する」というのが現時点での双方の漫画ジャンルが形成しているムードかと思う。
    • 余談そのに。麻雀漫画は、殊に「闘牌」という強力な概念が一般化して以降バトルものとして洗練を極め、一方でバトル大好きの少年漫画も高度化・複雑化の果てになんとなく闘牌じみてきており、ようするになんというかざっくり言うと大雑把に現在背伸びしたいお年頃な男の子が大好きなほうの漫画の多くは「パチンコか麻雀かでいうと、麻雀漫画に似たコードで描かれている」ものが多い印象。実際 90 年代中盤以降、バトルものとしての麻雀漫画は確実に麻雀愛好家以外のオタの評価も得て、麻雀愛好家の枠を超えて浸透したりとかしている、はずだ。そのへんのトピックを挙げるとすれば「福本伸行氏作品のメジャー進出」「週刊少年マガジン誌上での「哲也-雀聖と呼ばれた男」連載」とかがあるか。そもそもなぜプリキュアの話で「強いていえばパチンコ漫画」というような物言いが出てくるのかといえば、こういった 90 年代における少年バトル漫画と麻雀漫画のシンクロニシティ的な並走状況を踏まえた文脈上でプリキュアを捉えようとした際に、「少年バトル作品→少女バトル作品」「麻雀→パチンコ」といった転換でうまいこと説明できんかな、と思ったという話なのだった。
  • もうちょっとザクっと書かないとこれはまとまらんな。
  • あとこれは微妙な気分の話だが、もちろん「麻雀漫画:少年バトル」への対応としての筋もあるんだけど、それでなくともプリキュア 5 単体でも、なんとなくパチンコっぽさみたいなものを感じているのだ。なにか…、いや結局少年バトルものとの絡みになりそうなんだけど。要素としては「一話完結の傾向が強い」「勝利=善であることが自明」「文脈でなくモードの切り替わりが重視されるバトル演出」とか、わりあい単純なアニメだと適用できそうってのがある。
    • 一話完結の傾向が強い:シンプルであること。前提の理解など面倒くささがないこと。パチンコっぽさ。
    • 勝利=善であることが自明:倫理観とか人文的な思索とか、なんかバトルにややこしいアプローチを持ち込まないこと。とにかくにも勝つことがうれしさと直結されていること。抱き合わせがないこと。バトルをやりすぎた少年ものだと、戦うことと勝つことと善であることの不一致問題などへ踏み込まざるをえなくなっている場合とかがあって。特に中二の正義感を煽る類の作品とかだと顕著で。そこいらへんを大人の事情で聖域化するかしないか、みたいなジャッジが結果的にパチンコっぽさというか。
    • 文脈でなくモードの切り替わりが重視されるバトル演出:ようするにプリキュアの戦闘って、あまり経過が重要じゃない。これをまずこうしてこうなってこうなったからここで必殺技出してトドメ、とかじゃなく、とにかくバンクシーンに入ったらモードが変わるんだという理解。どうでもいいから変身すりゃ強い、なんでもいいので必殺技出せば敵に勝てる、みたいな。ならさっさと出せという話だが、そこが演出になっているというかんじ。パチンコっぽさ。

かんたん作画を楽しめる作品として。

バトル少女ものの系譜として。

  • 以前のシリーズをあまり見ていないのでいまさらかもだが、昨年シリーズの SS 最終回あたりの戦闘シーンにはかなり驚かされた。自在に飛翔し、ボディコンタクト解禁で空中肉弾戦、高速での背後の取り合い、派手に吹っ飛んで地面に叩きつけられたと思ったら砂埃の中から飛び出して反撃など、もうほとんど後期ドラゴンボールと区別できない領域に入っていた。
  • 今作プリキュア 5 はまだそれほどの段階ではないが(すくなくともキャラクタが自在に空を飛んだり浮かんだりとかまではしていないので、ドラゴンボールに例えるとしても鶴仙人一派以前だ)、キャラクタたちはかなり積極的にコワイナーと殴る蹴るの肉弾戦を演じている。
  • バンク演出の関係などもあろうが、90 年代前半を背負って立つバトル少女ものとしての美少女戦士セーラームーンは、「通常バトルは肉弾戦の回避に終始し、飛び道具の必殺攻撃で決着する」という戦法によって、バトル少年ものとあくまで一線を画していたと思う(「決着が飛び道具」であること自体はバトル少年ものでも珍しくはない、特徴はあくまで「格闘戦の回避」にあった)。そのへんで、もはやいまどきのバトル少女は通常バトルも受けて立つようになったんだなーというあたり感慨深いというか、なんというか。