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時をかける少女 ブロガー試写会

時をかける少女

行って見てきた。おもしろかった。たぶんもう一回映画館に見に行くと思う。いろいろ書きたいこともあるのだが、現時点で多少でもネタバレを含む感想を書くのはまずかろうから、公開後に。もう一回よく見て確認したいこともある。細かいことだが、各舞台の位置関係とか。

  • 走る!走る!走る!かけるって書いたほうが正しいのか。タイトルに偽りなし。時間もだが空間も、ヒロインはとにかくよく走る。時間をかけることを、空間的にかけることによって身体的に一致させているあたりが若さなのか。たぶんタイムリープ能力の使い方として無駄は多いのだろうが、腑への落とし方としてはすっきりしていて良い。考えてもわからないのでわかりやすい方法でわかってみた!みたいな。
    • けど、じつは「時をかけられないから」走る、というシーンは多くない。そこはキーになっていると思う。そしてそのときヒロインは真の意味で時間を走りはじめていると思う。
  • ヒロインの声が、力をこめたときに意外と野太く(?)伸びるかんじの声質で、ああこれはいいなと思った。腹いっぱい演じているかんじ。
  • 時かけ作品は伝統的に、時間流を肌で感じる能力のある年代をこそターゲットにしているはずであり(ベタには「未来」を「将来」に読み替えればよい)、本作もたぶんそんなかんじだったので、上映中「歳食ってくると時間への感受性がマジで鈍くなるんだな」としみじみ実感した。心の肌ツヤというか。たぶん大学生以上になると、このような時間感覚はノスタルジーとしてしか見ることができない。できれば中学二年か高校二年で見ときたい映画だったか(←新世紀エヴァンゲリオンを中学二年時点として見て、少女革命ウテナを高校二年時点として見て、みたいな願望観賞年齢話のひとつとして)。まあおっさんにはおっさんなりの見方楽しみ方があるし、それはみずみずしくないぶん堅牢でもあるから、おれは常にいまのおれで問題なくもある。
    • 高校までの教育課程の効能のひとつは、時間が不可逆であることを(わかりやすい形で)日常的に体感できることだと思っている。振り返ってみてあれほどわかりやすく一方通行な時期はなかった。世間に放り出されると、時間というものがそう単純な動きをするものではないことがわかってくる。もちろん戻れるものではないし、(大雑把には)一意に定義できもするが、他人との時間衝突はわりとよく起こるものだし、感覚できる情報の質が多様なために、なんだかブヨブヨと曖昧に捉えるようになっていく。感受性の弛緩は心の弛緩ということでもあるだろう。時を走っていけない側の人間というか。
  • やはり超然とした三十代(以上の)女性が出てくる。魔女叔母さんの存在が本作の不思議さの要になっている。少女と元少女との対話。細田氏のモチーフのひとつなんだろうか。
    • 完全に余談だが、現実にある「不思議ちゃん」について、「女子」が終わったあと「おばあちゃん」に至るまでの道のりが険しいものなのだろうことは推測できる。たぶん女性が「おばさん」である時期は、彼女たちに「不思議でもなんでもない存在」であることを強いるからだ。始末をつけたり、折り合いをつけたり、なんにせよ多くの元不思議ちゃんはここで一旦決断を迫られる。「千年女優」の千代子すらも中年の時期には失踪せざるをえなかった。その時間帯にもオーラを保ち、自分の不思議オーラを熟成させることのできるようなキャラクタは、たぶんある種の理想存在といってよいのではないかと思っているが、それが誰にとって理想的であるかはよくわからない。すっ飛ばすと、「十代二十代の不思議は平凡。おばあちゃんの不思議は非凡。三十代〜四十代の不思議は正真正銘」ってことだ。で、たぶん魔女叔母さんはその最もレアな位置に立っている。さすがに時をかけただけのことはあるというか。いやちがうか。時をかけたやつならけっこう居るはずだ。中高生くらいだとそのくらいのスペックは誰にでもある。魔女叔母さんがすごいのは、時をかけただけでなく居るべき場所までたどり着いたからか。
  • やはり三叉路が出てきた。これもモチーフのひとつなんだろうか。三叉路系作品っていうと、おれの中で「三叉路=美大系=オサレ」という印象なんだけど。といっても「じゃあオタクにも関係ありそうな範囲でほかに誰が」って言われると安倍吉俊氏しか思い浮かばなかった。ありゃ。なんか印象だけ膨らませてたかな。まあでも三叉路だなやっぱり。
  • 時間モノ作品を SF 的に楽しむ場合、その作品がどの系統のタイムパラドクス解決を採用しているか(あるいは採用していないか)も要点のひとつと思うが、本作では「同時間に一人の人間が同時二箇所に存在することはないので、別の(自分自身が存在している範囲の)時間に移動した場合、移動前の意識は移動後の時間の自分自身の身体に置き換わる(ただし空間的所在の連続性は保障しないので、タイムリープによる異常は空間的移動として観測される)」のルールを適用しているようだ(基本的には原作と同じ事例といえる)。ここからさらに、このような適用の場合、その作品は「存在は魂単位で勘定できる」とする考え方に裏打ちされていたりいなかったりするのかなとか漠然と妄想していく経路があるが余談。
    • ちょっとおもしろいのは「過去の自分側に意識が移る」ではなく「過去の自分に現在(未来)の身体を置き換える(上書きする)」こと。つまり「疲労していない過去」に「疲労している現在」からタイムリープした場合、その時点で「疲労したまま」過去に転移するという設定にしてあるようだった。けどまあ全般的に本作には設定がどうのってより演出優先っぽい雰囲気があるので(←ディテール描写がいい加減という意味ではない)あんま厳密ではなさげ。

時をかける少女