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支持しているビジョンに沿ったゲーム機の、支持していないゲームタイトルを、ときどき買わなきゃいけない気がしてくる病気

初代 XBOX の頃からそうなんだけど、DOA シリーズて XBOX 的にはそれなりのメジャータイトルという位置づけだったりして、でもおれの頭の中の宇宙ではメジャータイトルではなく、というギャップについて、ちょっとここは場に迎合というか市場の空気に同調しておいたほうが結果的にしあわせなのではないかというような微妙な気分があり、悩ましいというか鬱陶しい。おれがほっといてもドカドカ売れていくようなハードのタイトルの話だったら気にも留めないが、XBOX 360 てそういうわけではないからな。気にくらいは留まる。(ゲーム屋のひとから)比較的売り上げを見込まれているタイトルの伸びが鈍いようだと、いずれ売り場面積が減ったり棚がなくなったりとかしないだろうかと心配になる。適切なタイミングで、たとえば DOA4 の発売初週などに、ゲーム屋のひとに「ここに XBOX 360 タイトルを買う消費者が一人居ますよ」というアピールをしておくべきなのではないかという気がしてくる。

けど違うんだよな。そういうことではないんだ。

マーケットシェアでゲームを語るフレームに己の一部を預けたりとか、ようするにゲームへの偏愛を、コミュニティの中で共有することによっても満足させていく生き方を選んでいるようなゲーオタと違い、XBOX 360 を発売日に買うようなおれは利己主義者としての自覚が強い。わざわざ安くない金額をこの時期に支払うのは、それが己の欲望を充たすために必要な機材と時間への投資だからだ。そういう場合にのみ、商品は額面で買うものでなくなる。シェアがどうとか関係ないから売れなさそうな予感をビリビリ感じつつも買いに行くのだし、遊ぶことのできる時間を生きながら遊ばずに待つのがいやだから初期不良だの次期モデルだの当然ありうる要素を検討外に置いて買いに行くのだ。おれがしあわせになれるかどうか、というかより正確には、おれだけがしあわせになればそれでいいという欲望。これが利己主義でなくてなんであろう。この欲望と最大多数の最大幸福的な筋合いを尊重するような公共性を同時に持ち合わせられるほどおれの度量は広くない。シェア話のひとたちが偉いなと思う点はそこで、彼らは「(最終的に)みんなでしあわせになる」方法の模索を決してやめないところが強い。逆に「ひとりではしあわせになれない」というのが前提になってんのかなとか疑わしいのだがまあ。ちょっとズレた。ゲームエゴイズムの話だった。戻す。ここにはべつにメジャー愛やマイナー愛もない。みんなが知ってるから好きとか、ひとが少ないから居心地がいいとか、そういった筋合いによって支持されるメディアも世の中にはあると思うけど、XBOX 360 の話はそれと違う。仮に今後 XBOX 360 をみんなが買うようになっても、それはよろこばしいことだなあと思いつつ、やはりどうでもいいというか、おれのしあわせとはあまり関係ない(Live の絡みがあるので無関係とはいえない)。おれが問題視するとすれば「売れなさ過ぎて市場に出回らなくなる」と「売れすぎて市場に出回らなくなる」の両端の状況で、つまり、そうなったときにだけ「シェアが原因でおれが困る」わけだ。そして、現在はその前者の心配を多少している(国内ソフトにはあまり期待していないのと、海外ソフトのリージョンフリー設定タイトルの増加に期待しているのとで、これも必ずしもクリティカルな話というわけではない)。どのみち心配は心配に過ぎないし、消費単位として可能の範囲で消費し、不可能な領域で滅ぶ流れならそれを押し止めようとは思わない。売り場から消えれば注文すればいいし、注文もだめなら通販すればいいし。さすがに日本からハードが撤退されてしまうとどうしようもないので、それだけは避けたいが、そこまでは当座心配する必要はなかろう。

というようなわけで、やはり DOA4 は買わなかった。いちおうゲーム購入検討材としてハード立ち上げ直後のこの時期には、通常の「あそびたいゲーム内容か(ジャンル等)」「どの程度作り込まれているか(クオリティ等)」のほかに「どの程度本体性能を引き出しているか(デモとしてのパフォーマンス)」「本体の活用可能性(そのソフトを買うことでどの程度効果的にゲームプレイのバリエーションをひろげられるか)」とかも結構比重が大きいわけなので、そういったことを総合的に考えると、この時期の DOA4 はおれにとっても決して魅力の少ないゲームではないのだが、それでもやはりちょっと。