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不安と安心のオルタナティヴのメモ

野方給水塔 | 050220 A 1 of 6

ネットにおいて「自分は少数派である」と自覚するのは容易で、しかしそれだけではまだ足りないと思える。自分を少数派と思った場合、なんとなく「自分以外の多数派」を想定しがちだけど、「自覚少数派こそが多数」の場合があるからだ。存在しない「自覚多数派」を互いに言い合って少数派意識だけ加速していくというよーな状態。

匿名で多数派を自認するか、仮名で少数派を自認するかの二択と捉えると、てきとうなネット政治アジの一発も打(ぶ)てそう。以前にあった blog vs 2ch とかの世界観はその読み筋の一種だろう。おれの場合自分が属するとしてもっとも居心地よさそうなのは匿名少数派。その感覚が結実しているのが、つまりは自アンということか。無自覚に安易だ。そこ(自分のそうした無判断な決定)に対する気持ち悪さがあるから、そこへの抵抗だけは結果的に観測することができるのかも(←脳内参議院の見えづらい仕事?)。

人間は世界観次第で安心も不安もできる。だったら、要素を分解して常に安心しながら生きていくことだってどんな状況からも可能だといえるはず。

  • 容易な「自分は少数派である」という自覚によって「自分の個性は他者と交換困難」を導き出せるから、個人として安心できる。
  • 「自分を少数派だと感じているひとはけっこう多い」という感覚によって「自分は立場としては多数派である」を導き出せるから、社会人として安心できる。

こうした世界観を選択することによって、少数としての個性・多数としての社会性は両立可能で、そういった方法によってお手軽に生活の安心を確保できると思う。ただしこの「少数という多数」という世界観による安心は、結局のところなにも保障しない。納得して死ぬという未来に対する怖れとの兼ね合いになってくるか。どのみち不安による社会参画(具体的には金を払うとか)のほうはメディアが自動的に煽ってくれるだろうから、対社会として個人のやるべきことは安心による社会参画感の獲得かなとも思いつつ、しかしメディアが不安によって金を使わせようとするのは、結局のところメディア自身の少数派であるという自覚からくる不安にも立脚してる気がしなくもない。

なかなか決め込めないところだなあ。

  • 関連キーワード
    • 外敵を作って安心する仕組み
      • ようするにアンチ。少数派であることを見出したとき、アンチ多数派という立場はコミュニティに目的を与えやすいが、もともとそんなつもりでなかったとしても、アンチ的な目的に一度でも拠ってしまえばそれ以外の目的に再修正することが困難になってしまう。それを歪みとして捉えてしまったとき感じる苦痛とどう向き合うか、または向き合う機会を減らすために備えるか。
      • それにアンチ的結束には、アンチ先の変質によって無意味化するという脆弱性がある。非アンチ的に出来上がったコミュニティがアンチに変質し、そしてアンチ先の瓦解によって空中分解してしまうようだと、当初にあった幸不幸がリセットされてしまうのでしょうもない。
        • しかし、アンチ的にでないと結びつくことのないような縁も世の中にはある。アンチ行動の利用も選択肢のひとつには確保しておいたほうが豊かさに近いのではないかという懸念。
    • オタコミュニティ内でのモテのなすりあい
      • 特定少数オタコミュニティなどで起こる問題。モテに限らないが「村の中ではこいつが一番」という絶対を、社会語で相対的に語ってしまうことで起きる読み替えに近い誤解が、まるで絶対的なものであるかのように錯覚され、村がますます特殊化していってしまう。
      • 稀で決定的な機会に発生してしまう価値観の交通事故や(「?」という顔のひとの仇名が「ホスト」とか)、そのせいで一気に無意味化したかのように受け取られてしまうコミュニティ内で培われた相応の価値。
        • とはいっても、価値的に鎖国することで効率化し独自発展する文化もある。どっぷり漬かるなら一プレイヤとして RP に徹するがよく、適当に楽しむなら価値衝突の渦に巻き込まれたとき不幸なことにならない程度に、立ち位置に関して日常的にやんわり釘刺しをしておけばよいか。