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BURNOUT3 と F1 ゲーの苦い記憶

フォーミュラカーのグランプリまできてるんだけど、これがどうにも苦手だ。長ーくドリフトコントロールするおもしろさはこのクラスならではのものだと思うのでそこはいいんだけど、全体的に安全運転していったほうが勝てるかんじになっておりバーナウト度が低まってしまっている気がする。よってここで選択されるのは、序盤で首位になっておいて、抜かれたときだけブーストかけて TAKEDOWN していく方式。安全だ。安全はいかんよ。といってそこで危険に走ると速くなりすぎてコントロールできなくなってついていけなくて吹っ飛ぶんだ。もどかしい。

ただまあ、苦手意識の理由のすべてがそれというわけではないんだよな。運転ゲーはまんべんなく好きなんだけど F1 カーとかフォーミュラマシンだけ嫌いなんだ。いや嫌いってほどでもないんだけど。すごさは認めるしかっこよさもわかるしそこにあるおもしろさもわかりはするが、でも積極的には支持しない。とてもはっきりしている。自車の感情表現が乏しいからだ。具体的には荷重移動の手ごたえなど。おれが運転ゲーではなるべく一人称でなく三人称視点を選ぶのは、自車の状態変化を確かめたいからだ。加速・路面・荷重を天と地と人とし、それらの渾然一体が現在であることを楽しみたい。そこをおもしろがりたいから遊ぶのだ。

16bit 世代までは、家庭にせよロケーションにせよレースゲームといえば F1 の天下だった。それ以外もあるにはあったがなんかやっぱ傍流感が否めなかった。32bit 以降にフォーミュラ以外の天下が来た。リッジレーサーデイトナ USA。極限まで低重心には設計されていないこれらの車なら、無茶なコーナリングで車体は傾き歪む。そしておれはようやく本格的にレースゲーに帰ってきた。そうだよこれだよ。ようやくおれが遊びたいものが全力で作られる時代がきた。ハードが次のステップに進んでも、次のステップなりの制約が、むしろフォーミュラ以外の車体を選択させたという側面もあったわけだが、しかし生まれた流れはそのまま加速し、この世代で達成させるべき感情表現はどんどん実装されていった。

そしていまや表現力は飽和し、次のステップを待ちながら余した力を渦に巻いている。おれがリッジレーサーを一人称視点で遊ぶのは、あのシリーズの自車の挙動は見ててもあんまりおもしろくないから(路面とあまり関係ないから)なのだが、最近のゲームでは一人称視点でも三人称視点なみのレスポンスを感じられるときもある。F1 ゲーを遊んでみても、フォーミュラマシンのわずかな感情変化さえもきっちり描画できるほど細密化したのだなあと実感できる(この変化はたとえるなら「銀行 ATM のおねえさんキャラ→エヴァンゲリオン綾波」だ。かつて貧弱な表現力しかなかった頃、わずかなリアクションは閾値以下の反応として切り捨てられ、単に無感情としか描けなかったフォーミュラマシンの萌え要素を、現代ゲームの性能と開発力は引き出すことに成功した)。だからいまの F1 ゲーは、正直いってけっこうおもしろい。なにもかも強力なモンスターマシンを御するむずかしさ。安易な強さの発動はそのままの勢いで一瞬の自滅にプレイヤを追いやる。そしてすべての局面で性能を強さとして発揮できたときに獲得する勝利。そこにはかつておれが F1 ゲーを嫌いになった理由など欠片も残ってない。それでも微妙なひっかかりを起こすというのは、やはり経験と印象の力の大きさなのだろうな。16bit 世代の鬱屈と F1 のフォルムには本来なんの関係もないはずなのだが、長すぎた不満足の記憶が脳内でなかなか分離してくれない。