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物語るメディア のメモ

mixi の、ひとの日記にガシガシとコメントを書きまくってしまって、うわあオタが暴走してるなあと自分を客観視しているおれ。顔真っ赤で必死の自説を無呼吸連打みたいな。去年くらいからときどき考えていた、メディア・絵柄・物語の相関問題について、ちょっと絡みそうなネタが振られていたので勢いにまかせて指走ってしまった。

結局自分用メモの分量もぜんぜんたまってないので、またあとで考えるためにおれの発言だけスクラップ。

おれの場合、福島聡「少年少女」を読んだとき、「高校までめんたまでっかち系のオタオタしいアニメ漫画にしか触れずにどっぷり田舎オタをやっていた純朴な若者が、大学でオタ系のサークルに入って、そこに置いてあった福島聡氏作品を読んで衝撃を受け、そこから道を踏み外す」といったシーンなどを具体的なディテール(場の臭気も含めて)まで想像してしまったというかなんというか。

おれの中では福島聡氏作品は「大学一年のときに読む漫画」としてカテゴライズされてるかんじというか。オサレ / 非オサレはともかくサブカルへの曲がり角作品として門戸をひらいてる印象があります。

そういえば KanonAir で感動した関係の若いひとたちについて、哲学とかそういった方面へ転んでいけた頭のいいひとたち以外に、ニヒル路線→場末サブカルといったかんじで転向していった層もたぶん居るんだろうなあと思ってるんですけど、彼らが節目節目で手に取った作品はなんだったんだろうかなあと興味があります。

サブカル分類されやすい漫画の傾向は、なんとなくですけど、人物と背景の線がわりとオタ向けよりも差がないところにあるかなあと思っています。どちらもあんまり区別せず同じタッチで描いてるかんじというか(「キャラクタ&それ以外」な漫画作法どっぷりではなくて、それを踏まえながらもある程度光画→版画変換的に線を拾っていくような描き方というか)。

たとえがアレですけど、ガンダムジオン公国の首都でズム・シティとかありますけど、あれなんかは「"キャラクタ" という考え方によって描かれた背景」といえて(背景なんだけどキャラクタ性があり「あーなんかすげえ悪いヤツが作った建物」と一目でわかるようになっている)、ある意味でサブカル漫画の対極的なのかなとか思います。なんか違う話かもしれませんけど。

(補足)キャラとそれ以外の区別というか、差が問題なわけだから、たとえば背景を含むすべてがキャラクタっぽく描かれていれば、それはそれで差がないというになり、サブカルっぽい印象になると思っている。

あーアニメの影響ってあるのかもしれませんね。

キャラを重視というか特別視というか、いっそのこと実はキャラしか描いてないというような萌え絵描きは多そうというか。かわいらしいものが好きでそれを描きたいという欲望から、ほかのものにも意識が伸びていけば、自然に「特になんにもない背景」とかにも絵柄が行き渡っていくと思うんですけど、あまりにキャラが特別な存在であった場合、意識がキャラだけで終わってしまってそこから外をオマケとしてしか捉えないこともあるのかもというか。
関係あるようなないようなアレですが、先日水木しげる「総員玉砕せよ!」の文庫サイズ版を買って読んだときに「あーいまのオタ漫画家のひとの場合、漫画を描く欲望が「好き」以外にあんまり根ざしてない感じがするから、こういった、水木しげる氏のような、なにか怒りのようなものを動機として漫画を描くということが、できないのかもしれないなあ」とおもいました。

不謹慎な話ですが、今後災害とかテロとか戦争とか、なにか怒りを覚えるような状況にオタ漫画どっぷりなひとが遭遇してしまったとき、そのひとはその感情を表現するために、漫画を選択することができないのではないかというか。そのひとにとっての漫画というのは、そういうものを表現する手段ではもともとない(かもしれない)から。これがサブカル調の絵柄を持ってるひとになら、いくらでもやりようがあるんでしょうけど。

萌え絵で怒りやネガティブな感情を表現する場合、石田敦子氏作品のように「かわいいキャラでグロい話」みたいな、なんというか奇形的な印象になってしまって、それはそれで表現したいものから表現できたものへ(受け手の判断以前の段階で)成り代わっていってしまうんでないかとか。