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ヲタクの謎継続 2

相変わらず謎のままになっている、「オタク / オタ」「おたく」などに対する用語としての「ヲタク / ヲタ」のニュアンス関連について。漠然とイメージが固まりつつあるような、掴もうとすれば霧散してしまうような、そんな状態なんだけど前回から時間も経ってることだし、まとまりなく書き出し。関連しそうなログは以下。

  • すこしまえに「ガチオタ←→ヌルオタ」という抗争アングルでネット議論などが盛り上がったんだけど、そのへんの言説を眺めつつ、「非ガチオタとしての自称ヌルオタ」の立ち位置とヲタクって近いんじゃないかと思ったのだった。「基本的に自虐」「権威に代表されない」「我々をほっといてくれ感」など、ヌルオタとしての自己主張とおおまかに一致していると思う。
  • ガチオタ側が「ガチオタ←→ヌルオタ」を対義語として用いているのに対して、ヌルオタ側は「非ガチオタ」的なニュアンスで用語「ヌルオタ」を用いているかもしれない、というのがポイントだ。用語「非モテ」界隈の、仮想「モテ」を基準とする「非・モテである自分」という自意識形成と構造は近い。オタク内部の「ガチ←→非ガチ≒ヌル≒ヲタク」。ガチオタの対義語として自己規定すればヌルオタになり、非ガチオタとして退却した位置に用語「ヲタク」があるのではないか?という。
    • 余談になるが、おれ定義でいうと用語「ガチオタ」は強調表現系であり、個人的に表現として好きじゃない。強調表現系というのは、男を「漢」と言ったり、〇〇じゃなく「真の〇〇」とか「本当の〇〇」みたいに狭めていく界隈。
  • ヌルオタとはなんなのか?
    • おれが以前から書こう書こう思ってなかなかまとめきれない話として、「大学生頃の(モチベーションの高い)オタの傾向を大雑把に三つに区分する」という試みがあって、
      • A:表現の濃さを追求したいオタ:同人誌・ミニコミ・MAD 作品等の制作、オタイベントや web サイト等の管理運営、宴席でのディスカッションやオタ理論構築を巡っての議論やオタ体験談のプチ演説好きなども含む。市場によって形成された消費単位であるところの「オタとしての自分」を、表現として市場(世間)へ還元させてゆくことにリソースを注ぐタイプ。
      • B:消費の濃さを追及したいオタ:アニメ録画しまくり・DVD 買いまくり・声優イベントいきまくり・コミケ予算は毎回 10 万以上(当然共同購入ギルドに参加)、ファンクラブ系にも多く加入、携帯サイトはあまり躊躇いなく会員登録(有料)する。とにかくオタコンテンツの入手・保存・消費に最大リソースを投入。インプット過多のアウトプット希少。
      • C:関係の濃さを追求したいオタ:オタ友同士での時間消費を重視…というと曖昧なのだが、A や B がかなりの部分エゴイズムで駆動しているのに対して、C は「友達」を非常に重んじる。個人的な観測では 2000 年頃からよく見かけるようになったと思う。コンテンツ再生産やコンテンツ消費などもそれなりにやるけど、「みんなとの時間の確保」にリソースを注ぐタイプ(電話・チャット・カラオケ等)。オタク文化圏の肥大化によって「ふつうのひとたちの生活圏」をオタク趣味が巻き込んでしまったがゆえに生じた、「オタク圏内で活動しているから外部からはオタクとして観測される、行動様式としては普通のひと」かなあ…。
    • …という A/B/C は、A タイプのひとなら A の性質だけとかではなくて、一人の中に それぞれのタイプの性質がどれくらいの比率で含まれるかみたいな大雑把なイメージの話なんだけど、ともかく、C タイプの性向が顕著なひとは、ヌルオタというふうに見られるよな多分と思ったりもする(もっとも、これら 3 種のうち現在の主流はおそらく C タイプなので、コミュニケーション至上主義者=ヌルオタが、オタク界隈内のトライブ間抗争で肩身の狭い思いをするなどという状況は、ほぼ起きないだろうと思っている)。
    • あと、C タイプをヌルオタだと仮定した場合には、よくいわれるような「ヌルオタは努力が足りない」みたいな言説の意味が違ってくると思うんだよね。コンテンツ消費や咀嚼によって知的万能感を得ることが非常にむずかしくなっている現在、若い世代から立ち上がってくるような自称「ガチオタ」というのは、往年にゴロゴロしていた自称ガチオタ群などより遥かに厳しい関門をくぐり抜けてきているスーパーエリートと言ってよい。そして、「それ以外としてのヌルオタ」が、そのままの意味でヌルいなどということはない。どこにリソースを注ぐかという、それだけの話なんじゃないかと思うんだよな。C タイプのオタクの努力は自分周辺の人間関係構築と調整にあるわけで、それは A や B の努力に比べて成果として見えづらい。相手あっての関係だから、状況の変化で容易に壊れたり、揮発してしまったりもする。A や B より遥かに難しく繊細。それに注力していたら、A や B に回すリソースが減ってもそれは致し方なくない?という。
    • …まあ「友達が居ないヌルオタ」はどうなるんだ、という話も当然あるので、用語ヌルオタ定義としてのこの話には穴が多いのだけど。オタコンテンツが、努力しなくても確保できるものになって以降、「努力しなかった結果オタクになった」という経路でオタク界隈に流入してくるひとの数は増える一方だろうしなー。ひきこもりのひとがオタクになりやすいのって、部屋に閉じこもっていて入手できる暇つぶしメディアのかなりの部分がオタクコンテンツだったりするからなんだろうし。
    • さらに追記として、「2000 年頃から数年間はそうだったんだけど、現代の若オタはそこからさらにまた事情が変わってきてて、じつはもうあんま友達を大事にはしていないかもしれない」という感覚が微妙にある。じゃあ何を大事にしているのかというと…それがわからん。最近極端なタイプのひとばかり見てる気がするから平均値がわかりづらいってのもある。
  • それと別に、古くから言われているような意味での用語「ヲタク」には、どこか「腐った」「やさぐれた」みたいなニュアンスがある。まっすぐさ、純粋さなどを失った自分、という立ち位置を示すため、「オタク」でなく「ヲタク」が選ばれているというかんじ。こういう用例としての「ヲタク」の反語としての「オタク」には、だから「ケガレていない」「理想主義的な」みたいな形容が付くと思っている。
    • たとえば、やおいのひとが言うようなヲタク。この場合の「オタク→ヲタク」という変化は「婦女子→腐女子」みたいな言語感覚で為されているのだと思う。「ご立派なことはしていない、というより積極的に後ろ暗い、恥ずべきことをやっている我々」という自意識。ケガレの意識っていうのか。とはいえ、そこにはそれなりの矜持が生じうる余地があり、実際やおいのひとの多くは「外部者からの安易な理解・共感姿勢」を拒む。男オタクの場合でも、古いタイプの自称「ヲタ」のひとは、「おれはオタクとしての自分を恥じているけど、それは自省としてであって、他人からとやかく言われたくはない」というような態度が見えて、現代オタ的な「ヲタク」の自意識とはかなり違う。
  • あと、往年オタなら「オタク界隈=おれたちの遊び場」みたいな感覚を、わりと自然に持っているだろうと思っているんだけど、近年以降(第三世代とかいう用語が出てくる前後から)のオタクはそういう感覚を徐々に持たなくなってきてるかも。というのは、オタク界隈の発展とそれに伴う市場の拡大が、出来事としてすでに終わったあとから「その場」に入ってきた、という感覚で接してるひとを見かけるようになったんだよね。だから彼らは「この土地に生まれ、街の発展と共に成長してきた」みたいな実感を持っていない。おまけにおれらのようなおっさんがいつまでも「オタク=おれたちの遊び場」という感覚でデカいツラしてのさばっているわけだから、そりゃ郷土的愛着なんか持ちようがない(関連→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080218#p2)。
    • そういう意味での、根拠のありなしに関わらず、オタクである自分に帰属意識を持っている側の人間を「オタク」と規定した場合の、反語となる、たしかに今オタク文化圏内には居るけどオタクとしての自分には帰属意識を持っていない、あるいは持てない、はたまたオタクからさっさとオサラバしたい気分もあるんだけどほかに行き場が見当たらない、みたいな層の自意識としての「ヲタク」ってのもアリかなあ。都心(オタ)が堅苦しくなれば副都心(ヲタ)に歓楽街が、みたいなかんじで、重心は移り変わっていくんだろう。

最近のアニメ - 乃木坂春香の秘密関連

乃木坂春香の秘密」を見ていると、おれの心の中二の魂がイラッイラッと反応するのはなぜだろう。というあたりを考えてみた。

  • なんだろ、都合のいいことは全部ヒロインに言わせて、主人公はやっすい硬派路線っつーかなー。ベタなオタ生態描写はそういう友人立てといて、主人公自身は「オタク文化に理解がありつつ一線を引いてる」というキャラ立ち。こういうのに感情移入することでラクになるやつに北風を!ブリザードを!
  • あーちがうわ。「オタクは隠さないといけない趣味」って世界観の気持悪さ。そのオタクっぽいオタクバッシング何?みたいな描写とかもきつい。
  • この心理状態に同情できないのって、おれがいじめられっこの気持を理解できないガサツなやつだからなのー?みたいな。んなわけねーだろ「オタク=学内不可触民直行→(難関)→愛と友情で乗り越えられる」みたいな無茶な突破以外にも、抜け道なんて山ほどあんだろと思っちゃうんだよな。「ルートを狭める(=ストーリーを作る)外圧」を、主人公とヒロインのベタ惚れルートの形成のために便利に活用しているところがもう。
  • 整理すると「オタクの被害妄想っぽいオタクバッシング、から隠れオタクである彼女を守る、オタクの理解者でありオタクそのものではないオレ」っていうオタクの自作自演はきもいというかシャイン!マリオさん SHINE!てかんじ。
  • うーん、図書館戦争に感じた不快感からすると、かなり次元は低い気がするんだけど(三次元→二次元的な意味で)、なんかやっぱイラっとくる要素の詰まった今期注目作のひとつなのかもしれん。イライラの切り口が多くて困る。
  • 諸要素をみると、結構がんばっていまどきの若オタ最適化をはかるべく各部調整してるっぽい雰囲気は伝わってくるんだけど。どこまでハードル下げれば「おれたちだってさすがにここまではダメじゃない」と怒りはじめるかテストしてるのかなー。
  • あと、ここまで書いたように「オタク趣味」がかなり重要なキーになってるアニメなんだけど、主人公は「オタク趣味に理解があるだけで、自分はそれほど詳しくない」、ヒロインは「オタク知識を雑誌で勉強しているが、オタク実践者としてはほぼ初心者」で、だいぶヌルいんだよね(この場合「ヌルオタでオッケー」というのは視聴者へのハードルの低さとして機能)。のわりにヒロインが持ってる「オタク趣味がバレる=破滅!」みたいな世界観が強烈という(視聴者の一部が持ってるのかもしれないある種のトラウマを増幅か?)。
  • 「「秘密」それ自体は全然大事なものではなく、むしろそこをきっかけに生じる絆のほうが重要なんだ」的な物言いは容易に想定できちゃうんだよなー(←たぶん若オタ向けにベタなオタコミュニケーション至上主義を肯定する路線ならこのへんに落とすよね)。主人公の友人に、だいぶオタクやり込んでる系のキャラが居るけど、こいつがどう絡むか、あるいは微妙な一線を引いて遠ざけるかで、この作品の「オタク」観はだいたいわかるよなーと思う。
  • なお、おれは昔からこのてのホイホイ系の仕掛けに対するセンサが過剰なので(関連→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070222#p1)(←たぶん田舎者としての「過剰に空気を読みすぎる」体質が影響している)、こう見えてしまっているが、普通はそこまで気にする必要はないだろうとも思う。

coco「今日の早川さん」とかは読んでてイラつかないの?てつっこみがあったんだけど、うーん?いや別に早川さんはイラつかないな。「自分の趣味を理解しない他者が居ることを認めること」と「他者から理解されない趣味を持つ自分を恥じ、あるいは自罰すること」は全然ちがうと思うのだ。