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不寛容問題 のメモ

DEAD RISING

  • SNS 内に「足跡帳」とかを作る→でも足跡ついてるのに足跡帳に記帳してないひとが居る→「ちゃんと足跡帳に書いてください。常識でしょ」→「そんな常識は NEEEE」
  • SNS 内に日記を書く→日記を見に来るけどコメントをつけない(またはコメントつけたのにレスを返さない)→「見たならコメント(レス)書いてください。常識でしょ」→「そんな常識は NEEEE」

この類のローカルルール派とローカルルール食糞派による SNS 内人間関係トラブル(というか、トラブルのように爆発→収束せず、じわじわギスギスが続いて風化するような場面が多い)をわりと見かける気がするので整理。

  • 基本的な考え方
    • 「足跡帳を置く自由」は保障されてよい。ので、「足跡帳」的な慣習は排除されるべきでないし、排除を助長するような言論も蔓延すべきでない。
    • 「足跡帳に記帳しない自由」は保障されてよい。ので、「足跡帳に記帳しない」的な行動は排除されるべきでないし、排除を助長するような言論も蔓延すべきでない。
  • 雑考
    • 「踏んだからには足跡帳に記帳しろや」はムラ社会的なローカルルール押し付けの典型だが、案外この慣習の歴史は古い。ので、これを「常識」と押し付けてくるひとが居ること自体はおかしな話ではない。
    • また SNS の閉鎖性(←「SNSSNS 外部」というレベルでの閉鎖性もあり、また「SNS 内部のクラスタ A:SNS 内部のクラスタ B」というような閉鎖性もある)はムラ社会そのものであるから、その内部でローカルルールを押し付けあう行為自体も不当なものとはいえない。
    • 結局のところ、そこに「常識」という曖昧かつ強権的な印象のある(←言葉は言葉にすぎないので、実際に強権があるわけではない)キーワードが使われていることだけが問題なのだろうと思う。言葉遣いで回避可能のコンフリクトだ。作法とかそのレベル。わりと根は浅い。
    • 言った側:「ローカルルール」を指すべきときに脳内辞書からうっかり「常識」を選択してしまう言語感覚が粗雑。でなかったら「「常識」と言っておけば通るかもしれない」という打算が不用意。
    • 言われた側:「常識」というワードに引っかかって吹き上がってみせるのは不用意だし、ワード「常識」を神聖視しすぎともいえる。相手の発言からしかファクトを見ようとしないのは口論的で大人げないし、常識でないのなら反論も可能。ただしそれは「相手側(ムラ)のローカルルール」に干渉しかねない行為だから、それをしていい場かそうでないかの判断には慎重になるべき(誰にでも保障されるべき尊厳はあり、コミュニティ内でどこまでの行動が許されるかは外部的な(規約などの)ルールから伺える)。
  • まとめ的なもの
    • 結局のところ、「これが常識だ」「それは常識ではない」という対立は、両者共に「常識外への不寛容」という点で一致しており程度が同じ。
    • 自分の尊厳が脅かされないかぎりにおいて、「他人の常識」には寛容であるべきだろう。
      • でもこの「どこまでが自分の尊厳(を保障するエリア)か」というのは、さらに厄介な問題っぽいので、結局そこでまた詰まってしまうな。いまどきのインターネッターはこのへんセンシティブだっていうし、あとまあ(ちょっと特殊な状況として)プロレスを楽しみたいのなら坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の振る舞いもアリだろう。
    • 自分の常識のほうが標準的だと客観的に判断できるのなら「説教」「啓蒙」みたいなアプローチもアリなのだろうが、しかしこのてのやり方も結局は「それをする者の人格への信頼」として受容されてしまうので、小状況が解決できたとしてもあんまり前進しているかんじはしない。
    • だから、基本的に「これが常識」と押し付けられたときには、「それは非常識だ」と反論すべきでなく、「そうですか」とでも言って放置すべきなのだ、が…。まあどのみちローカルルール勢にはこまかいことを気にするひとが多いので、しこりは残るだろうからいずれまとまったタイミングで長ったらしい背景説明などをして合意を得られるよう試みる必要は出てくるだろう。
      • 大雑把には、「自論を否定された=自分の人間性を否定された」「自分の設定したローカルルールを無視された=自分の存在が軽んじられた」というような理解によって苛立っているひとが多い印象。だから、「私はこの説を否定するが、だからといってあなた自身を否定しているわけではない」「私はあなたの設定したローカルルールに従わないが、それはあなた自身を軽視しているからではない」というような筋合いからの説明になるだろうか。
  • 連想問題
    • 「多様性を認めよ」という思想は、「「多様性を認めない」という思想」もまた「多様性のひとつ」として原理的には認めるべきだが、それが現実的な態度かどうか問題。
    • 良い政治家とは、自分を支持しない有権者の幸福のことも考えたうえで社会をデザインする政治家のことであるが、それがどこまで実現可能か問題。

理想と現実の妥協点をどこに取るかという話だな。なかなかむずかしい。

それ pla

おれの中でいはゆる「それ pla」(http://subtech.g.hatena.ne.jp/keyword/%E3%81%9D%E3%82%8CPla)というフレーズがおもしろい概念に異化したのは、L さんの

のび太が「空を自由に飛びたいな」と言ったら、ドラえもんが「それ Plagger で出来るよ」と…

みたいな話を聞いたときのことだった。あと「それは Plagger で出来ますね」と実際に口で言われると、それ pla はなんとも愛嬌のあるボケ突っ込みとなることに Skype でチャットしてて気づきもした。よくわかんないけどとにかく便利そうなアイディアが提出されたタイミングで使われるのがよかろう。Plagger がなんなのかとか、それが実際に Plagger で出来ることなのかなどはもはや関係ない。でもたまにびっくりするようなことが本当に Plagger で出来たりするらしいので世の中油断ならないのだった。

…というような話から、ひとのためになることが全部 Plagger で行われてしまうようになった社会を想像し、ひとが誰かのためになにかしようと思っても、ためにならないことしかする余地のないようなのはイヤかなと思い、Plagger に包囲されたディストピアってのもなんかちょっとアレだなと思ったが、しかし仮にそのようになっても人はやはり Plagger をでなくほかの誰かを愛するはずだと信じて、とりあえず腹減ったけど腹壊してるからどうしようかなーと、一昨日東大の鉄門前あたりをテクテク歩きながら思っていたんだったと、さっき思い出したのでメモ。