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アニメ「陰からマモル!」の ED 問題
夜中にやってる「陰からマモル!」(http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/kagemamo/)というアニメをたまたま見たのだが、これの ED の演出が、アニメとしては禁忌に近いことをやっているような気がしてすごい気になった。といってもべつに過激とか放送コードに引っかかりそうとかそういう話ではない。キャラクタアニメーションの様式を侵している可能性の問題。具体的にどんなことやってるのかというと、
- 男子と手をつないでいる女子
- そのつないでいる手に向けてズーム
- 手しか見えなくなるところまで寄って、また女の子の顔が見えるようにカメラ引き&パン
の繰り返しで、この「手しか見えない」ところの事前と事後で、女の子のキャラクタが次々入れ替わっているのだ(と書いてわかるかな、実際見るのが手っ取り早いんだけど)。2D 演出の技法的にはアリでおもしろいかなと思わなくもないのだが、キャラクタ表現としてはすごいまずいものを見ている気がした。この演出の、「手のアップ」前後で入れ替わっている女子 A&B は、もちろん別キャラだが、この演出はその別キャラである女子 A&B の「手だけは完全に同じ」と公認しているということになってしまう。それがやばい。
いうまでもなく漫画やアニメのキャラクタは実在しない。全体に含まれるパーツの集合で、格別に描き演出することにより「そこにキャラクタが存在している」という様式を成立させている。これは様式であるから、バラバラにすれば記号に過ぎないという話になる。で、この演出は「これ記号ですよ」に着地してしまっている(「各キャラクタは手のパーツは交換・置き換え・共有可能である」)。実在しないからこそ記号であることを認めてしまってはいけないと思うんだけど(そのこと自体を演出してみせるのは前衛芝居だ)、もうそういう防衛線に固執する段階ではないってことかなあ。記号を記号と知りつつ楽しむのはメタすぎてちょっとつらい気がするのだが。フェチを解するオタだけを相手にしても母数を十分確保できるようになったという判断か。それ以前に気にしすぎかおれが。
最近はもう完全にオタの基準として「濃さ」が用いられなくなった
2,3 年前までは、だいぶ通用する領域が狭まった感はあったもののまだまだ通用していたと思うのだが、 2006 年現在の感覚でいうと「濃さ」への感覚がほとんど感じられなくなった。濃度を追求するオタのスタイルが転換しているという部分もあるし、また現在も「濃さ」に言い換えることのできる基準のあるジャンルはあるのだが、それを指して「濃い」とは、今の感覚では言わないかんじ。非常に微妙な感覚の話で、曖昧なのだが。これはもちろん「萌え」に代表される感覚の話などとも関連しているが、対立項というわけではない、ので、まとめるにはしばらく煮込み期間を要する。あと、単におれの見える世界の縮小とシフトの問題も含まれていて、これがどの程度大きいのかの見極めも必要。
あとこの「濃さ」も、ひょっとしたらっていうか誰かが仕掛けた政治語の一種であったかもしれないというか、そんな気がするので、そのへんの歴史の洗い直しもついでにやっときたいところではある。