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山遊白書

新宿駅 | 移転しました

おれはオタなので興味のないものをじっくり見るということを、結果的にほとんどしない。なのでときどき根本的なことについて勘違いしたまま放置することがある。というかそういうのは本当は「ときどき」などという頻度に収まらないのだろうが、自分が勘違いをしていたと気付くためには、後で正解に気付き直す機会がなければならず、それが後述する理由によってほとんどないため、自覚をもとに言えば「ときどき」となる。

ちょっと話を戻して、なんでそうした勘違いを放置できるかというと、興味のないものというのはつまりおれと縁のない(≒おれがその影響圏に取り込まれようとせず、その影響圏がおれを取り込もうとしない)ものなので、勘違いしたまま暮らしててもおれが困るような事態にはあまりならないから。よくしらないことについて知ったふうな口を叩くといずれ恥をかかざるをえないが、興味に沿った縁を形作るという意思(オタ)的な生き方を心がけるうえで、縁と興味がかなりの精度で同期していくよう努めていれば、そもそも興味がないことについて知ったふうな口を叩いてしまうリスク自体をコントロールできるため、いずれそこもあまり心配しなくてよくなっていくだろうし、またそのうえで仮にそのような恥をかいても、まあそういうこともあるなとあまり心配せず生きていけるようになっていくのかもしれない。なんかまた話がずれたか。よくわからん。

で、その一例になるのだが、おれは冨樫義博幽遊白書」のタイトルを、五年ほど前まで「山遊白書」だと思っていた(アニメ版だけど一応ソースとして→http://pierrot.jp/title/yuyu/)。なんで「山」を「ゆう」と読むのか不思議だった。なんかファン同士のお約束事か?みたいな。興味がなかったのでそのままきた。メガドラの幽白は名作よなとは思いつつも自分ではあまり熱心に遊んでなかったのでその時点でも気付けず。Hさん宅で全巻読む機会があって、そのときふと表紙を数秒眺めて、ようやく気付いた。「山」の中にあったのは、なんかゴチャゴチャしたノイズでなく意味のある字の一部であったか。自分で勘違いして自分で気付いたというパターンなので、これによってかいた恥はない。ていうか重要度が低いので、勘違いといっても(おれにとって)あんま恥ずかしくない部類かもしれない。

上條淳士TO-Y」のロゴが「イローン」に見える問題」(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20031226#p1)と、根はいっしょなんだけど展開が違ったパターンか。

大悪司

ウィミィ拠点攻略してクリア。ああ、クリアだ。なんでもないエンディングなのに、スキップとかせずぼんやり眺めてしまうなあ。ていうか大悪司のおもしろさはよくわからんなあ。といっても原因というか問題はもうずいぶん前にわかっている。とにかくいろいろ詰め込んであって雑多で猥雑で複雑なんだけど、それでもこれは有限なんだよな。有限はつまり、いずれ飽きるってことではないのかっていう怖れとつながっていて、おれのゲーム観は、そこを直視することをながらく避けてきた。おれはオタだから消費を怖れる。自分が好きなものを自分の手で消費するということをだ。有限は消費につながる。大悪司の根底にあるのは一言でいえば「世界は有限でいい」ってことだと思う。そして大悪司はおもしろいんだから、おもしろさとして成立しているその世界観には否定する材料がない。

有限のコードの連なりが無限の世界をジェネレートしうるというコンピュータゲームにある最も基本的な感動が、おれにゲームとそのほかのメディアをはっきりと区別させ、そしておれにオタとしての最初の視点を気付かせたと思う。そして実際、いまだその境界は克明のままで、ほとんどの場合それで問題がない。だけど大悪司は、その境界を曖昧にしたところにある。おれのセンサにとってその領域は死角に近く、曖昧にしか像が描けない。大悪司は、立派な装丁の、分厚い、組み換え可能の(バインダー形式かもしれない)、本にも近いといえるかもしれない。だけどもこのような様式はコンピュータ上でしか表現しようがないので、コンピュータゲームとして確かに成立している。ゲームとしかいいようがなく、エンタテインメントとして間違いがなく、しかし、なんなのだこれは。位置的に近い感動はゲームブックのそれだが、もちろんまったく違う。なにか新しいものだ。いや新しくはないのだろうが、おれのような人間を構築しうる社会の持つ、おれの知らない多様性のひとつだ。

いずれ尽きる文字の羅列が小説だ。その一本道になぜ多様性が生まれえるかといえば、読むひとによって受容の仕方に多様性が生まれるからで、そして同じひとでも読む時期によってまた拡がる。何度でも読める本は、だから豊潤といえる。大悪司のリプレイ性もそれに近いが、同じではない。まあ大悪司はゲームだからストーリーは分岐しうるし、展開も変えられる。ただここで注視したい違いはそこでなく、プレイヤとしての自分の意識だ。大悪司は完全にひまつぶしだ。本も一応そのつもりではあるが、そうでない部分がまったくないとはいえない。本は読みながら脳をドライブさせていく感覚があるけど、大悪司は遊んでて脳がまったくドライブしない。読み手でなくプレイヤ。なにも解釈しない。ただ消費するだけ。なのにその消費に飽きるところがなく、おれは大悪司に対してそれを怖れていない。大悪司はゲームで、おもしろく、そしておれはオタなのに。ふつうそこでおれは不安になるのではないのか?だけどならない。そして結果としてたぶんおれは大悪司を、思うほどには消費していないとわかる。まったく結果的に、大悪司はおれの中で成立している。過程でしかないようなゲームなのに。ブラックボックスのようになにもわからない。たぶんそのへんだろう不思議なのは。

だからおれには、なんでそもそもこんなゲームが成立するのかわからない。まったく結果的に成立したゲームとしか思えないが、そのようなことはまたおれの中ではありえなく(←「バグによって成立したゲーム性」とかの話とは別のものとして)、矛盾する。どういうゲーム観なら大悪司というゲームの制作が「普通のこととして」成立するのか。そこにあるのはおそらく、そう突飛でない現状把握と、制作における客観的事実だけだろう。べつにたいしたことではないかもしれない。生半可で大悪司が出来上がるとは思えないが、しかし人知を超えるほどの作業量でもなさそうだ。しかしだとすればますます事態は深刻だ。おれの知らないゲームの世界はまだまだ広い。

すこし前にゲームをエンタテインメントと言い換える運動があった。だがエンタテインメントとゲームでは字が違う。字が違えば、それまでそこにのっかってきた意味もまた違うとういうことで、なんにせよ融和は容易でない。大悪司は成功していると思う。この様式は特殊すぎて汎用性を拾うのは困難と思うが、しかしともかく一例として成立していると思う。それはそれだけで相当すごいことだと思う。ああそうか、おれの中で大悪司に最も近いほかのゲームは、GB「カエルの為に鐘は鳴る」(http://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/okj/)なのかもしれない。

つづけて二周目に突入ー、しかけてやめといた。また今度改めて。とりあえず残ってるセーブデータから取得可能のイベントと CG の回収。所持金十億円条件は、十億円以上持った状態でクリアを見ないとだめなのか、もう一回ウィミィ拠点攻略するのは面倒なのでそれはパス。攻略サイトとかは充実してるはずなので、そこいらへんを参考にすれば効率的に進められるかもしれないけどそれは三周目以降でいいやってことでまだ見てない。