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用語「トゥルーエンド」のメモ

新横浜ありな

こないだの日曜、映画「恋の門」を見に行った帰りがけの八曜会で、「フラグ」ってオタ相手だとだいたい通じるけどオタ以外のひとにはまったく通じないかもねみたいな話から、「トゥルーエンド」はゲーオタ語かもなー(より厳密にいえばエロゲオタ語だろう、ただしエロゲオタ界隈はかなり広範にあちこちのオタ界隈と根を通じているので、エロゲーネタはエロゲオタ以外のオタにも流通する確率が高く、ある程度オタ一般に通じる用語だろう)という話がちょっと出たので、そこいらへんを整理するために書き出し。

グッドエンドやバッドエンドなら、まだ多少ふつうのひとにも通用する可能性があると思うけど、トゥルーエンドはマルチエンディング(ADV や RPG や、一部 SLG など)の感覚を日常的に体感しているオタ以外には通じなさそう。物語分岐可能性のある作品上でしか生じない概念。似た用語としては、映画オタ語としての「ハッピーエンド←→バッドエンド」がある。映画の場合商品としてはともかく(←ディレクターズカット版とか)作品としての物語分岐可能性がないため、トゥルーエンドという用語が生まれる土壌はないと判断できる。やはりゲーオタ語だろう。

  • 生んだのは制作者側?プレイヤ側?
    • トゥルーエンドというのは、ゲーム開発上では生まれてきづらい用語にも思える。出自を辿れば専門語や業界語が変質して定着したものであることの多いオタ語の中の、珍しく「なんとなく業界語っぽいんだけど実はユーザ発祥の用語」なのかもしれない。開発者にとってみれば、グッドだろうがバッドだろうがトゥルーだろうが、どのみち分け隔てなく書いて作ってチェックするわけだから、ルートに属性を定義づける意味があまりなさそうな気がするからだ(≒どのみち全部に手をかけるんだからルート分岐に貴賎なし)。どちらかといえば、そういう属性付けを楽しみたいのはユーザ側の心理ではないか。
      • 現実的には予算や納期の関係で制作上のプライオリティは存在するわけなので、状況によって「バッドやグッドは一通り話の筋がとおってればよし、トゥルーエンドのチェックと演出強化を重点的に行う」というような判断はありうるし、まあそれはそれとして、グッドとトゥルーの別はともかく、即死系のバッドエンドルートなどについてはほかと明確に差別化されているだろう。
      • ノウハウが蓄積されパターンワーク化された制作(=エロゲー)の場合、パターンワーク化の一環として、「グッドエンド」や「バッドエンド」が開発語として発生するのも不自然ではないかも。
    • トゥルーエンドというのは、物語制作上で生まれてくる用語かもしれない。作家性を主張するような、「制作者の世界観」を訴えかけたいような作品を制作するうえで、分岐に制作者として強いて属性付けを行うというかたちでの自己主張はありえる話だからだ。95 年前後の 32 bit 世代コンシューマゲームバブルにあったような「ゲーム開発者の、クリエイタとしての自意識の展張」など時代的な後押しもあったかも。ゲーム開発者に職人的な美徳が期待されていた(抑圧されていた)時代から、表現者としての自意識過剰を期待される(煽られる)局面も出てきた潮目の時期。
      • 関連するかもしれないなつかしの論争「物語制作と ADV 制作の価値観差」
        • (物語立地側)クリエイタとしての責任。
        • (物語立地側)物語を作るというのは、曖昧模糊とした宇宙に天地を作り、仮想体に魂を与え、実在しないものにまるで質量があるかのように感じさせ、どうとでも転がっていってよいストーリーについて「こう転がっていくんです」と決定する作業。傲慢であることは承知。当然責任は重大。ほかのあらゆる選択可能性よりも、これが唯一選ばれるべき物語であると決められないようでなんのものづくりか。選択肢によるルート分岐はむしろ責任の放棄。曖昧にあれもこれもと手を出すよりこれと決めた一本の筋道に全力を集中し、それをプレイヤに評価してもらうべき。
        • (ゲーム立地側)メディア提供者としての自制。
        • (ゲーム立地側)プレイヤの好きなように楽しんでもらうのがゲーム。ストーリーにおいても選択の自由は保障されているに越したことはない。重要なシーンになると物語をプレイヤから取り上げ、選択の余地なく一方的にシチュエーションを押し付けるなど言語道断。自由は権利と責任の表裏一体で、主役がプレイヤであれば当然それはプレイヤに帰するもの。プレイヤを置いてきぼりにすべきでない。価値観のおしつけは自己満足・自家中毒につながりかねない。
      • 関連するかもしれないなつかしの論争「選択肢の属性付けは是か非か」
        • 制作者はルート分岐を個別に評価すべきでない。ゲームの主人公はプレイヤで、評価はプレイヤのすること。あらかじめ制作者が「これはグッド」「これはバッド」などと決めてしまえばプレイヤはそれに左右される。ルート個別にあらかじめ価値付けするのは、プレイヤの選択に点数をつけるのと同義(自分のプレイの点数は、プレイヤ自身に決めさせるべき)。クジのあたりはずれと一緒。選んだあとでそれが当りであったかハズレであったかはプレイヤが評価することであって、事前の属性付け・評価は、その判断に干渉しかねない。
        • 制作者はルート分岐を個別に評価すべき。でないとプレイヤが迷う。わかりづらい。「これはバッドです」「グッドです」と提示したほうがゲームに集中してもらえる。
    • 「プレイヤ(物語消費者)としての立場もとりうる柔軟な制作者」が生んだ用語、とかだと丸く収まる気もする。曖昧なものを曖昧のまま表現しうるメディアは、この十年でずいぶんふくらんできているから、なくもない話ではあるし。とはいえこれはこれで収まりがよすぎる気もする。

おれがはじめて「トゥルーエンド」という用語を聞いたのは、Leaf「雫」(または「痕」)だった…ような…気がする、曖昧。ゲーオタでなくエロゲオタ語かなあと思ったのはそれが理由。「かまいたちの夜」でも聞いたかもしれないんだけど、あれはどちらかというと「ピンクのしおり」とか「金のしおり」とかいうように、見たエンディングの評価云々でなくセーブファイル単位で進行状況が把握共有されてたように思う(「トゥルーエンド見た」でなく「ピンクのしおりになった」)。また、マルチエンディングがゲームに採用された時点からトゥルーエンド的な概念は生じる可能性があり、ただ、そこに名前が与えられることは永らくなかったので、単に「真のエンディング」とかなんとかセッション単位でてきとうに呼ばれていた期間はかなり長かったんじゃないかと思う。というかトゥルーエンド自体「真のエンディング」を言い換えただけのものだし。ただ、用語として名前が与えられ、それが流通したことで標準化され、考えに組み込んだりそれを踏まえた話がしやすくなったことなど、「真のエンディング」の「トゥルーエンド」化の意義は大きい。

  • トゥルーエンドとはなにか。
    • 全般
      • トゥルーエンドは、その作品中に提示された世界観や人物観や価値観について、ほとんどすべてを包括したうえで出される最も優れた結末であることを、大抵の場合期待されている。
        • 真相と正しい結論、あるべき運命。サスペンス的には「解決篇」か。または総括的な意味合い。
    • ゲームとして
      • ゲーム的には、シナリオ上の大分岐をひととおり終えた時点でアンロックされる「トゥルーエンドルート」のエンディングである場合が多いようだ。
      • 事前に複数提示された岐流のストーリー群が、最後に合流する(総括される)(集束する)大きな流れ。
      • そのためトゥルーエンドは、初回プレイではどう頑張っても見れないようになっていることが多い。
        • トゥルーエンド方式は、ゲーム終盤に最も高い感情線をもってくる設計として妥当と判断されるケースが多いため。
        • そのためトゥルーエンドは、制作側からは「リプレイ性を効率よく一定に保つ方式」として解釈評価され、採用する際にはそこに期待されている印象(「何度もプレイしなければ納得できる結論にたどりつけない」=「予定した回数プレイヤは遊んでくれるはず」)。
          • 当然「気に入った作品については、何度も新鮮な気持ちでその世界を体験したいっていうかむしろさせろ」というプレイヤ側の潜在的な要求があってのこと。「奥行きのある世界」で「魅力的なキャラクタたち」が「何度もあたらしいストーリー上」で「いろいろな横顔をみせ」ながら展開し、盛り上がり、終わる、というような作品なら人気作となれる、という目論見があったとしても、そんな欲張りな要件はコストがかさみすぎるところを、共通ルート+専用分岐の織り合わせでそれなりの労力でボリューム感と奥深さをなんとか両立させつついい具合にできないかという現状のひとつの到達点としての「繰り返しプレイ」方式か。
          • 単に「一本の筋道を折りたたんでいるだけ(トゥルーエンドを見るまでが一回のプレイで、それまでに見るエンディングは「章の終わり」の言い換えと捉えれば、ふつうの本を読む感覚にも例えられる)」と説明してもあまり問題はないようでもあるが、それほど普遍的に説明できるものではないと思う。ADV というゲームジャンルを踏まえた固有の様式としてカスタマイズされている。
        • また、初回から全ルートの選択が(すくなくとも確率的には)可能であるようなゲームの場合、それぞれのエンディングはランクや属性によってでなく、バリエーションとして理解されることが多い。「Tactics Ogre」の law と chaos、「DRAGON QUEST V」のビアンカとフローラなど。どれがトゥルーであるかの議論は起きない。というか、マルチエンディングの本流なり王道なりは、現状このような(トゥルーのない)かたちのほうにあると見ていいだろう。
          • 「トゥルー」は「バッド」を前提としたエンディングなのかもしれない(すべてがグッドエンドでは差別化の意義が薄く、バッドがあればより明確になる。ドラクエタクティクスオウガは、プレイ分量的にも「すべてがグッド」のパターンだろう)。
      • バッドエンドや、「いくつもある中からひとつだけを選ぶ」を繰り返したあとで、ようやく見れる「全部捨てない」選択。
      • 「このゲームで描かれてる内容は、だいたいここまでです(あなたは最後までやり終えました、おつかれさまです、ゲームを終えてもいいですよ)」のサイン。
    • オタとして
      • 「このゲームにはトゥルーエンドが存在する」という点について合意可能なメンバ中でも、ではどの分岐がトゥルーエンドであるについては対立する場合があるのは興味深い。
        • 各人の「心情的(自分にとっての)トゥルーエンド」は、必ずしも一致しない場合がある。ストーリーの嗜好やキャラ差が絡み、エロゲオタはそこで無理に合意を取らない。
        • 公式見解があっても、制作者による非公式見解があっても、トゥルーエンドだと思ったものがそれらと違ってても問題ない。
        • この場合のトゥルーエンドは、ハッピーエンドであるとは限らない。
        • バッドエンド的な展開も、十分に悲劇的であれば「トゥルーエンドである」と評価される場合がある(「痕」の千鶴エンドなど)。
        • この場合のトゥルーエンドの「トゥルー」は、だからゲームでなくプレイヤに掛っていることになる。
          • このへんの HONNE と TATEMAE の使い分けかたは日本人的なのかにゃー。ガイジンが困ったような笑顔で腕組みしそうな柔軟さだ。

油断中の数秒の思考流

油断してるときの思考には、あまりあたまは使われない。まあたぶんそうはいってもそれなりに使われているのだが、「あーおれいまあたま使ってる」と意識することは少ない。ということは、油断中は、あたまの中の自覚しづらい領域が活性化しているのだろう。たとえばたばこを吸ったりしてるとき。漠然と単語(やイメージや、そのようなもの)を選ぶのは無意識で、有意識はそれを評価するのみ。処理されるでもなく単に積まれて崩されていくだけの評価群が、ときどきリンクしたりコンボしたりする場合があって、その偶然がおもしろかったりおもしろくなかったりする。有意識以外の自己を自覚することがむずかしかった頃は、そんなものは思考ではないとか思っていたものだったが、無意識もおれであるのには違いなく、そしておれの辞書が「無意識」と定義づけている領域は、それが世間一般の辞書のいう無意識であるのかどうかはともかくとして、確かに自己に強い影響力をもっていることが経験上わかっているので、いまとなってはこういう受動的な評価の連続も、おれの思考であるのには違いないといえる、というかいわざるをえない、つまり、おれにとって思考は常に能動的なものであるとは限らないし、自発的な考えも受動的な場合がある。範囲がひろすぎるので適切なたとえではない気がするし、大雑把すぎるのであまり好きな表現ではないが、確率的にしか真理に到達できないなら、どんなサイコロの振り方をしたっていっしょ。

度を過ぎた脳内受動肯定は、オヤジギャグの自己正当化でしかないことは否定しない。

  • たばこ休憩中
    • おれの無意識が「いまおれのあたまがゴチャゴチャしているので、因数分解不能の要素を象徴化し、それを吐き出すことによって、バランス調整をはかるべき」と判定
    • いろいろあるが集約するとこれは「まいったなー」と表現するのが妥当と、無意識と有意識の境界線上で合意。
    • 脳から「まいったなー」と発声せよと指令
    • しかしゴチャゴチャしたあたまから発する命令は減衰されノイズまじりになりびみょうにニュアンスが変わって、実際にため息と同時に吐き出されたのは「まいったにー」という言葉。
    • 「マイッタニー?」おれの有意識活性化。
    • マイッタニーといえばホイットニー。ホイットニーて誰だ?
    • ホイットニースピアーズ?
    • ちがうちがう、スピアーズはブリトニー(http://www.google.com/search?hl=ja&q=Britney+Spears&lr=)。
    • あ、そうか、ホイットニーはヒューストンだよ(http://www.google.com/search?hl=ja&q=Whitney+Houston&lr=)。
    • ヒューストンといえばアポロ計画、ロケット打ち上げだよ管制だよ、「こちらヒューストン」てなもんで。
    • いつも思うけど「ヒューストン」て、日本語的にはロケット打ち上げゆかりの地の名前としてはずいぶん間抜けっていうか不吉だよな。打ちあがったらそのままおっこちてきそうなかんじ。日本の場合鉄砲伝来の種子島で打ち上げてるのはちょっとおもしろいけど。

揮発性が非常に高く、五分と経たずに消えてしまう記憶。いまメモった内容はこれで全部ってことでなくて、思い返せる範囲がこれくらいということ。不条理なことをやってるので効率は悪い、「忘れようにも思い出せない」の反対側だ、気にする前に忘れてしまうのはとても自然なことだろう。記憶でなくて、反復や輻輳かもしれない。ならこれは夢の親戚だ。こうした方法以外に時間と記憶を関連付ける方法をなくしてしまえば、映画「MEMENTO」の主人公のようになるのかもしれない。記憶障害の仕組みは相変わらずわからないが、ずーっとたばこ休憩中の脳状態で暮らしの連続性を保つことのむずかしさを思えば、その感触の一片くらいは理解できる気もする。