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最近の読書

「血涙」上下巻の文庫版が出たというので買ってきたぞジョジョー。よむぜー。超よむぜー。で読んだ。おもしろかった。思ったよりロマンチックな話だった。ロマンチックさ以外の濃度については食い足りない気分で上巻を折り返したのだけど、下巻から先の純度がさすがに高く、これはなんとも…せつない。ちょっとケルベロス世界とか連想した。平和と発展へ向かって行く世界で、先鋭化し孤立していく武力集団同士が、最後の殺し合いにむけて収束していく、という。

ひととひとの間に確かなものはなにもなく、しかし確かなものがどこにもないのかといえば違って、どこかにはある、はずだ、あるのだろう、という半確信みたいなものを踏まえて、あるいはそれは立場とか生き様というようなものかもしれず、筋合いというよりはめぐり合わせ、そこに乗っかっていく生きざまが終着すれば死にざまに至る。世界、というよりは時代のうねりだな。そういったものへの視線は熱くない。生き切るためになにを見ればいいのかというのは、生きているあいだに見たなにか、というだけのことでしかない、のか。とかなんとか、後半のスピード感はものすごく、ちょっとひさしぶりの読書速度では感受性が追いつかない。

滅びの美学の救いを血に求める、北方時代ものの王道がこれなのかもな。また読む。

本をデータ化すること

ドキュメントスキャナ買ったので「文庫本を分解→ PDF 化→ JPG 連番書き出し → 携帯端末に入れる→画像ビューアでサクサク閲覧」という夢の A/D コンバート作業を自己完結できるようになった、わけだが、いまんとこその実践がむずかしい。その理由は「iPhone の画面が物理的に小さいから」。なにせ 3.5 インチしかないからな。スキャンした画面そのまま表示してもまず読めん。言い方を換えれば、「iPhone よりもうちょっと画面のでかい端末だったら可能」ということだ。4.1 インチワイド液晶を誇る EM ONE なら、(それでも文庫と比較して面積 2/3 以下なので要調整だが)まあなんとか読めんことはない。でも EM ONE はなー、いい加減バッテリがヘタりすぎて、オフライン作業ですら一時間待たずに電池切れを心配しなきゃいけなくなってきたかんじで、その買い替えをしてでも持ち歩くというような端末ではなくなっている現状。画面大型化した新型 iPhone の登場を待つか、またはそれ以外の端末に乗り換えるか、小型低消費電力な画期的 UMPC が登場するか、そうした未来の到来を待つほうが現実的。

というわけで、いますぐバイバイ紙メディア&ウェルカムスキャニング人生、というふうに前傾して掛かるのは時期尚早。というよりも、「紙というメディアで摂取する」という様式を、それが唯一の選択肢ではなくなったことによって見直して、再評価するところに来ている。で、紙っていうものには利点のほうがやはり多い。ので、便利になればなるほど、現実的には紙を捨ててしまうデメリットのほうを強く感じるようになる。

とか細かい話は置いといて、しかし実際デジタル化することには意義があるとしかいえない。紙の利便性を捨てて、不便になってでも手に入れたい環境というものはあるわけだ。そこいらへんのことをメモる。

  • 紙は嵩張るので、データ化して原本を処分すれば部屋の省スペース化が可能になる。
    • 実際のところ周囲でドキュメントリーダ使ってるひとは殆どが「本が増えすぎてどうにもならなくなったから」という理由からその道に入っている。どれほど本棚が増えようと、それを苦にしないような感受性・家賃の増加に耐えうる資本力などが準備できてるうちには、わざわざデータ化しようと思うことは無いんじゃないかと思う。
  • スキャニングするためには製本されてる本を分解しなければならない。
    • これが本好きのモラルに反する。昔気質のオタには、というより、本自体がわりかし古めのメディアであることから、伝統を重んじる若者とかを含めて、本をバラしてスキャニングする行為に抵抗感を示すひとが多い。ので、「本自体が好き」というクラスタ・世代のひとは、製本されてるメディアには手をつけない。せいぜい雑誌とかまでだな。本は普段あまり意識してないひとに対しても、いまでも結構神聖・特権的なメディアなのだと思う。実際のところ、おれも「本は情報である以前にまずモノだ」と思ってる側の人間なので、それをカッターでぶった切るのにはかなり抵抗がある。まあ、抵抗感があるからといって、必ずそれをやらないという意味にはならないとも思っているから、やるけど。
    • で、スキャンするために分解しなければならないし、分解してしまえば再製本は極めてむずかしいから、スキャンし終わった本は紙ごみとして廃棄することになる。残してても仕方ないのだ。部屋の省スペース化のためにはじめた場合には捨てなければ意味がないし、束にして貯めといても製本状態に備わっていた携帯性・閲覧性・検索性は失われているし、それらの利点を捨てたくない本は分解すべきでないという話になる。だから、雑誌とかチラシとかだけデータ化して捨てて、本は本棚で普通に保存、みたいな選択的な運用は一般的といっていいはずだ。
  • 紙は劣化しデータは劣化しづらいが、紙はデータより寿命が長い。
    • スキャンしてしまえば現物を捨てても大丈夫、というようなわかりやすい話ではない。データは飛べば終わりだ。火事でもあったら本でも終わりだが、データよりはよほど寿命が長い。HDD は必ず壊れる。バックアップメディアに書き出しとく方法もあるが、本ほどの完全性は、データ保存では確保するのが極めてむずかしい。
    • ただし、ボロい紙の印刷物は、見た目にはっきりと経年劣化する。一度データ化すればそこから先の劣化というのはファイル破損のことで、基本的にアナログな品質の劣化は無い。
    • そこにあるジレンマは「データの保存技術・品質は後年になればなるほど高級になる」というあたりで。つまり、「これでもう十分だ、十年後にも五十年後にも満足できるだろう」と思える品質での保存作業を、満足な効率で出来るようになったと確信できるまでは、データ化作業には「これでよかったんだろうか」という疑念と後悔が付きまとう。ので、後悔しかねないような大事な本は、やはり最後まで分解せず大事にとっておいたほうがよい。
  • 本は相当高い検索性を誇るが、データにしておけばあとでそのポテンシャルを超える検索性を手に入れることができるかもしれない。
    • 本における検索というのは、棚から関連しそうな本をワシっと取り出して、パラパラめくって心当たりの章に辿り着く手間のことね。自分の本棚のデフラグと、あと本の内容の脳内インデックス更新をマメにやっておけば、どの情報はどこを見れば載っていたか探すのは意外なほど簡単だったりする。けど、スキャンした本は、うまいことメタ情報を埋め込むことでさらに検索性が上がる余地がある。たとえば手持ちの小説全部をデータ化したあとおもむろにフレーズで grep したら当該する作品全部の当該部分がズラーっと表示される、とかいう環境が手に入ったら燃えるじゃろ。まあそのての想像は OCR 前提だし、だいいち仮に実現する場合にはプライベートでなくソーシャルメディアを前提としてギリギリ成立する程度の可能性だと思っているから、自己完結作業のうえにはそぐわないのだけど。まあ画像として取り扱うことができるだけでも、本の状態では思いもよらなかったような運用は可能だ。なにせコピー&ペースト&コメント&メタデータ付けほうだい。One note 上に読書環境を完結させてみたりとか、実用書向けにはわりといいんじゃないか。
  • 携帯端末の画面は大概文庫本よりも小さいが、デスクトップモニタは大概文庫本よりもデカい。
    • モニタに表示させると原紙より拡大した状態で一覧できるので、わりと読みやすい気がした。視力弱いひとには自在倍率は利点なんじゃないか。モニタ回転させたら寝ながらでも読めるし。そのぶん取り回しが悪くなるわけだから、やっぱり良し悪し以上ではないけど。
  • ディスプレイは紙と違って自体発光メディアであることが多いので、夜の野外でも本が読めるようになる。
    • いやそんなことやってんのおれだけか。水滸伝とか、よく夜中散歩しつつ街灯の下とかで立ち止まって読んでいた。
  • 本は携行冊数が増えれば増えるほどかさばる。データはどれだけ増えても携行重量が変わらない。
    • これがデジガジェ運用的にはとてもデカいのだ。文庫本を通勤途中とかでちまちま消化していると、「そろそろ読み終わりそうだから次の一冊も…」みたいなかんじで、常時二冊程度は携行しがち。でもこれを端末に入れとけるという話になったら、容量の許すかぎり何冊でも持ち歩くことができ、そして EM ONE でも iPhone でも使える容量は GB 単位だ。普段本を持ち歩く必要がなくなる、だけでなく、読み終わって次の本に持ち換える手間も不要になる、となれば、これは便利というほかない。
    • けど、現状その利点は可読性の低下とバーター。はやく未来にならねえか。
  • データは停電すれば読めなくなる。
    • 電気がなければただのサル。

とかなんとか。