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EM ONE 近況

Halo 3 | 071014

最近、すわ WM 向けのアプリケーションかと思って飛んでいったらぜんぜん違う、というようなことが続いていて微妙。ちょっと体調悪いので頭がぼんやりしているかもしれない。

あと、やはりサクサク情報読み下し材として RSS リーダとかだろうと思ったのだが、無料でよさげな「03RSS リーダー」(http://labs.feed-yomi.com/03rssreader/)が、W-ZERO 3 前提ぽくてハードウェアキー展開しないと使えない仕様になっててヘコー。キーアサインいじればいいのか。WM 使っておいてあんまカスタマイズしてないってのは問題な気もするしな。

面倒なので、はてな RSS の更新通知を Gmail に投げるようにして、それをメーラーで受ける方式に。まあ一応これでいいんだが…。

最近のアニメ

直接に絡む話ではなさそうだが「らき☆すた」も「ぽてまよ」も主人公が父子家庭だな。母子家庭じゃなく。そのへんにあるのか現代的ななにかが。父親ってのが鍵だ。母親とは違う、父親特有の、家族という関係性へのぎこちなさというか、不器用さみたいなものへの視線が、何らかの(オタ向け作品に要請されている)時代感覚につながっていくような気がする。

らき☆すた」が主人公の家庭にフォーカスしたしんみり調のエピソードだったので、そこいらへんのことをちょっと考えたのだった。エピソード自体への感想は、ちょっと複雑だ。母親の居ないオタ家庭での父娘の対話と、その場にいながらコミットできない母親の幽霊の心境を描く、一見ほんわかほのぼの風エピソードというか。これなー、オタオタしい深夜アニメ作品としては一見感動的なエピソードなきがするかもだけど、じつは全然そんなものではない気がしたんだよな。たぶん片親家庭に育った男子にならある程度わかってもらえるきがするのだが、「死んだ家族の視点で現在を肯定されること」への、なにか生理に近いような倫理的抵抗感があるっていうか。

以前、こうの史代夕凪の街 桜の国」を読んだとき(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060324#p1)、なんとなく「なにがどうってことでもないけど、いいツボを押してもらったな」という感想を持ったのだが、それに近くて間逆のかんじだ。「べつに不快ってことじゃないんだけど、なにかきもちのわるいツボを押してもらったな」感。うーん、死んだ家族にはな、視点があっちゃいけないきがするんだよな、それがなくなってしまうのが、家族の死だと思うので。

あの母親幽霊視点が、父親を通じて語られるというのなら、納得のいくエピソードではあるのだ。しかし母親幽霊の視点は父親の意識にない。死者が生者と接点を持たないというのは、とても正しいので、それ自体はいい。けど、それでもやはり、死者の視点は、生者に代弁されてこそのものだと思う。おれの感覚でいえば、なんの自覚もなく死者に肯定されたくなどはない。家族の現在を肯定し、自分たちを正当化するのは、現在もそこに関与し続けている、生者であるべきだ。死んだ家族に対する愛憎、あるいは情念のようなものが、そう思わせるのだろうと思うが、その程度の愛憎もないようでは家族ではないのだから、やはりこの感覚は正当だと思える。

…というような諸々を勘案すると、いよいよ「らき☆すた」世界はこなたの父親を中心として夢邪鬼が作り上げた 2007 年のビューティフルドリーマーであるという説が一層強化され、遠回しに「○○は俺の嫁」言説をめぐってのおれの違和感(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070612#p1)も正当化されるかなという気がしなくもないが余談。