40 歳前後のおっさんオタのリテラシがガタ落ちしているらしいという話
そういや K さん宅で喋った話としてはこのへんもあった。アラウンドフォーティっていうのか、K さん周辺の、40 歳前後の、ということはつまり、軽く 20 年超オタ界隈で叩き上げまくってきたはずの、歴戦オタたちが、近年どうもネットで一山いくらで売ってるよーな、判で押したよーなことしか言わなくなってきているらしい、というような話を聞いた。べつにおれ界隈のおっさんオタとかはまだまだ全然そんなことはなくて、会うたび「おまえは相変わらずオタ力が足りない」とか怒られるので、アラフォーオタ一般の話としては認識していないのだけど。たぶんその姿は我々がやがて行く道のひとつだし、あと前々から考えていることにちょっと絡む話にもなってる気がするので、メモしておきたい。
これまで「テンプレが服を着て歩いてるよーな」といえば、大概は若オタの話だった。2ch とか作画 Wiki とかなんでもいいけど、ネットに上がっている情報をゴーストダビングして、念仏のようにネットで得た知識(と、そこに紛れ込んでいる書き手のカルマや情念のようなもの)を唱え続け、やがてそれを内面化してゆくという一連の様式。生きていくうちに溜まっていく生活の手垢は魂にも付着し、それが個人に備わるユニークさを実質的に保障してゆくことになり、そういうものの大概は単に時間の長さとか場数の多さとかで決定されていくので、「歳食ってるほうが味がある=若いうちは純粋なので染まりやすいし、染まり方にあまり多様性がない」みたいな大雑把な言い方が可能になって、しかも歳食うと集中力や観察眼(や細部に宿る神への信仰心)が衰えていくから、おっさんから見て若オタというのは「どれもあまり代わり映えがしない」みたいに言われがちで、そのような「どれ見ても一緒にみえるおっさん」という唾棄すべき存在が、逆説的に共同体のランドマークになったりとかしたりする光景もちらほらとあったり(つまり「〇〇以外のわたしたち、としての若者」というわけだ)、以下略。
でもこれが、まだまだ伸び盛りの若者側の話でなく、下り坂なおっさん側に当てはまっていくという状況はちょっときついものがあるなー。これは、おれが「ゆうきまさみ「究極超人あ〜る」の鳥坂センパイはおもしろキャラだけど、その鳥坂センパイを規範として振る舞いを規定しているタイプのひとはキツい」問題をあまり追及したくない感情に重なる(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070123#p1)。
ちょっと考えればわかることだが、オタクを数十年続けるというのは並のことではない。歳食えば自分と関係のないものへの興味関心は薄れていくものだから、生活の役に立たないオタク趣味層などというものは、具体的に社会人が一人立ちをはじめる二十代中盤から明白に先細って行く(上京就職者などは、帰省のたびに地元のオタ友が減っていくことにより、肌身に染みることと思う)。そこからの十数年間は押し寄せる妥協に抗う日々となる。オタク物件を好きでいつづけられる才能、あるいはオタク物件を好きでいずにはいられない因業がないと続けられるものではない。なにか関門を潜り抜けるような、瞬発力でどうにかなるような話ではなく、毎日の積み重なり、その十数年ぶんの研鑽が要る、ということだ。おまけに三十歳を過ぎれば「まるで呼吸するように時代が自分(たち)に寄り添っている」とでもいうような、いわば神通力的なものを人間は失ってゆく。そこから先の暗闇は、行灯で足元を照らしながらの旅になる。四十歳前後でオタクをやっている人間は、それくらいのことはやってのけて、いまそこに立っているということになる。たいしたもんだよ。褒め言葉としての、そびえ立つクソだよ。よくぞ日本人に生まれけりだよ。後続組の我々からすれば、未来を照らす光といってもいい。
のに、そのていたらく。功を積み、万巻の書を積み上げ、倒したトロール五万匹、メタボリックに膨れ上がった内臓に数十年分のオタ個人史を溜め込んだ生命体が、揃ってコピペ兵のような言葉を並べ立てる地獄。どういうことだよ。音速の壁をも突破した(←「オタクとして三十歳を越える」ことをこう呼ぶ)彼らといえども四十歳の壁を前にしては魂が砕け散ったのか、毎夜襲い来る虚無軍団を前にミナス=ティリスが遂に陥落したか、はたまた世界恐慌が悪いのか。なぜだ…とか思考の蚊取り線香がグルグル回ったのだけど、あれだなーもうちょっと単純に、「数十年がんばってオタ友ネットワークを維持してきた彼らもついに周囲にオタ友が居なくなり、一人になった」ことによって、極端にリテラシが低下して、ローカルから飛躍してグローバルなネットからの情報収集に対応しようとして、消化不良を起こし、判で押したようなことを並べるようになってしまった、ということなのかもわからんなー、と思った。彼らから抜け落ちたのは、おそらくは地域性、個別の共同体の、「それぞれの範囲や速度、ネットワークの性質などの違いから生じる固有性、妥当解の差異」みたいなものだ(そして元々は、彼らこそがそうしたものを最も知悉していたはずだ)。技術がいまだ世界を平坦化することに成功していないことにより、ひとと世界を直結させても幸福な人生は訪れず、中間に現地化や最適化が必要となるが、限界集落化を経て、ついに一人になり、手元での検討や答え合わせが満足にできないまま、「最小の輪としての自分クラスタ」を超えたところでの接触として他人と向き合うときに、まともらしいことが言えるか、というのは、かなりむずかしい問題だ。現状のおれは、ゲームを失い、アニメを失い、漫画を失っても、オタ友さえ居れば、たぶんオタクで居続けられると思っているわけだが、そのオタ友が居なくなったあとでもオタクを続けるというひとつの可能性を、K さんの話は示しているのかもしれないなーと思った。とかなんとか。