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鉄腕バーディ DECODE 02 関連 - 溶け合うメディアと記憶の話

鉄腕バーディ DECODE シリーズの、01 は最後のあたりになってようやくおもしろさがわかってきたかんじだったけど、その体験があったから 02 は前のめりに見て、半同期による他人の感想との対照の意識も持つことができたタイトルになった。具体的には、ネットでは作画崩壊トピックとして話題になった第七話において、「あんなのヴァイオリンじゃない!」と泣き叫ぶ幼バーディ、その姿をアニオタが作画崩壊と騒ぐ(≒「こんなのバーディじゃない!」)、という状況のおもしろさに思い当たったりした。あのとき描かれたバーディの反応は作画崩壊オタそのものだったし、バーサーカーは炎上の犠牲となりズタズタにされたのだ。…と、捉えなおしてみることは単純におもしろかったし、それだけではなくて、もうちょっと筋の通った読み方に通じていく視点だった。「当事者の心情の反映としての作画」という解釈は、Twitter での DATEX 氏の発言に気づかされたのが大きかった。

色々話題のバーディ 7 話を観た。好意的に解釈すれば、バーディ自身の記憶の混濁やトラウマの演出とも取れる・・・が・・・ちょっと苦しいか。つうか DVD で修正されるかどうかで白黒つければいいんじゃねーかという気もする。

DATEX 氏は「DVD リリース時に判定すればいいんじゃね」という態度で、あれをいいとも悪いとも言っていないし、おれにとってもそれが作画崩壊かどうかはさして問題ではない。ただ、「あの作画も演出意図に含まれていた、という仮定のうえでストーリーを追った場合、よりバーディをおもしろがれるのかもしれん」と考え直すきっかけになった、というわけだ。そうした見方の孕む小賢しさに対する嫌悪を呑み込んだうえで、実りのほうが大きいと判断した。あと、第七話でみられたような方向性をそのままグレードアップさせた最終話の高速戦闘は、アニメーションの腕力を感じさせるすさまじいものだった。こういうものを TV で見れるってのはすげえことだと思ったってのは、まあ蛇足だ。

作画崩壊絡みでちょっと回り道すると、作画崩壊と呼ばれる現象が観測される理由をシステム面でみれば、アニメ制作における「集団による」「手作業」という二つの曖昧さの掛け算が、発生確率を増幅するといえる。絵柄の微差などあって当然だし、静止画ならまだしも動画となれば、さらに構図の選び方やキーフレームの置き方などが掛け合わされ、それらの差異と、描き出される規格化されない真実性みたいなものに注目しはじめれば、そこが作画オタ道への入口だ。いっぽうで、絵によって描き出される「真実」は制作者の手触りのことであって、物語の手触りとはかぎらない、という疑念が、作画崩壊オタからの反発を呼んだりもする(制作者の手癖=作品世界のブレ、というわけだ)。この問題について、簡単には「フル 3D 化すれば作画崩壊は起こらない」とか言えもするんだが、アニメより細分化の進んだゲーム周辺の先端をみれば、結局規格化を追求しても実装担当部分での差異をひとは必ず見つけ出すという話になるので、あまり意味はないことがわかる(モデルが共通でもモーションデザイナによって個性は分かれるし、担当するシェーダプログラマによって情感も変わってくる)し、また漫画のファン界隈をみれば、同じ作家のコマごとの絵の乱れを糾弾するような流れを観測できることにより、「個人制作なら全部一人で描いてんだから作画崩壊など起きない」みたいな言説も原理というより確率に依拠した話といえる、…まあ脱線した。戻すと、「ひとつひとつのカットが違うひとによって描かれていて、当然そこには差異や齟齬が織り込まれている、にもかかわらず、最終的にはなめらかな一本の流れと受容されるべきものとして提供される」という制作システムとアニメーションの様式が、バーディを理解するためには結構いいかんじの手掛かりになっているのが、ポイントだ。

というのは…、ここから先をどこから書いたらいいやらわからなくて日記をズルズル先延ばしにしてきたわけで、まあ綺麗には書けないと諦めることにして、いつもどおりリスト形式でダラダラいこう。

  • 本作では作為的に、客観と主観が混在している。いやこの表現ではないな。「過去と記憶が混在している」と書くほうが適切かもしれない。現在進行中の状況については基本的に「(誰でもない視点から描かれる)客観的な事実であろうもの」として扱うことができる。一方で回想については、実は「体験した誰かの認識(主観)に基づいた、一見客観的に見える再現映像」として描かれてる(ので「混乱したバーディの感情が第七話の作画を乱す」という解釈が可能、という理屈だ)。
    • で、客観ベースと主観ベースの混在が、ストーリーを一本の流れとして受け取ろうとするときに齟齬を生み出すということを、視聴者に対して途中まで明かさずに、ドラマが進行していくのだ。演出上のトリックというやつだが、それが「(「語り部」の代替概念としての)カメラというものは、おしなべて客観的であろうもの」という固定観念にジワジワと利いてくる。
  • ヴァイオリン ヴァイオリン
  • そうした展開の象徴となるキャラクタが、ヴァイオリンだ。養育ロボである彼女は序盤からバーディの幼少時代の回想シーンに度々登場し、母性的なキャラクタとして描かれるが、そうした「優しいヴァイオリン」の記憶はバーディの願望による上書きで、事実ではなかったと第七話で明かされる。
    • また脱線するけど、ヴァイオリンがバーサーカーに壊されたときのバーディのキレかたがまたよくてね。凡庸なオタアニメなら「ヴァイオリンにすがって「死なないで!」とか泣き叫ぶ」「バーサーカーに向かって「よくもヴァイオリンを!」とか怒り狂う」の二択というところ、実際のバーディはバーサーカーに向かって突っ込んで、「あんなのヴァイオリンじゃない!」と叫ぶところが直線的で、丁寧。バーディの怒りの焦点は、ただヴァイオリンを破壊されたことではなく、「優しいヴァイオリンとの暮らし」という幻想を目の前でぶち壊され、惨い現実を突きつけられたことにあるからだ。こんな台詞を吐かねばならん超人幼女の孤独感いかばかりか。
  • そんなこんなで、これまでの回想シーンはバーディの願望が入り混じったニセモノでした、本物のヴァイオリンは冷たい養育ロボでした、ということになった。真実は真実以外を上書きせずにはいられないので、普通なら本物が判明した時点でニセモノはお役御免だ。けど、本作はそうしない。「優しいヴァイオリン」というバーディの見たかったものは、結局否定されなかった。たんに当人が「そういうことにした」という解決だけなら、第七話のバーディのつとむの最後の会話がそれに当たって、これだけなら単なるいい話で終わるが、その先へも届いて、「優しいヴァイオリン」は、最終話冒頭にも登場する。そんなものは居なかった、偽りの記憶だったのに、その表現には何のてらいもない。たとえウソでも、そのヴァイオリンのシーンはこのタイミングに必要と判断されたということで、必要だということは、(世界にとって)ウソだけど(ストーリーにとって)ウソではないということだ。何を読み取るのかは複雑だが、おれにとっては、それでよかった。こうした演出から感じられる鉄腕バーディ DECODE 02 の曖昧さは、少年漫画というよりは、青年漫画誌のものだと思った。
  • これまでがあるから、これからを生きられる。よくも悪くもだ。そして自分のこれまでは、記憶と過去によって構成されていて、肯定も否定も自由だが、改変だけはできない。だが本当にそうだろうか?想像を飛躍させるために、本作では精神融合というフィーチャーにより、バーディに「記憶」と向き合う機会を与える。そしてナタルには、リュンカ事件をきっかけとした覚醒により、「過去」と接続する能力を与える。
  • バーディとナタルに収束する展開は、二人が「これまで」に対峙する物語だ。バーディは一度溺れ、ナタルは強烈にバインドされるが、最後にはそれぞれが自分をみつけて、取り戻す。そして二人を取り巻くキャラクタたちも、各々の記憶と過去に向き合っていく。今を生きる早宮とつとむの態度の同調、つとむとの記憶を失くしたことに気付く中杉の戸惑い(それが作中で回収されなかったのは残念だが、あんなものはな、うまくいくのに決まってるんだと言えはする)、そしてナタルと過去を共有するヴァリックの苦い回顧と選択は、とてもよかったし、救いになった。バーディのケースは精神融合という特殊事情により強力だったが、それだけに、その周辺にある「SF 的な状況や能力に拠らない平凡な対峙」こそが、リアリティと呼べるものだからだ。
  • 今、そしてこれからのバーディが、いいヤツであるために、それが自然なことなら、彼女にとってもっとも自然な「これまで」を選んでもよい、ということ…じゃないんだけど、なんかこの、下手するとそんなふうにも書けてしまうような、すごくダイナミックで危険なことを、バーディはやっている。過去に囚われ、選択の余地のない正しさと怒りに、覚醒したイクシオラの能力が加わって暴走するナタルは、たぶんむしろバーディよりも筋道が正しい。けど、それでは悲しい。「こういう順番で、こうなってしまったやつは、悲しいことをするのが正しい」という問題を逸らすために、ナタルにはバーディが必要だったし、それを受けたナタルが、バーディの「今」を手助けするために必要な仕事をして、そこで話は終わる。
  • いつからバーディがそんなふうなキャラクタになったのかが、実はよくわからないというのは SF 的だ。元々そういう気質自体はあったと考えるのが妥当だし、すくなくともつとむはそう信じているが、もしかしたらバーディがつとむを取り込んだ第一期第一話の事件によって、そのように変化、あるいは強化されたから、今のバーディがあるのかもしれない。とりあえず、精神融合まで引きこしてるんだから、影響がゼロであるわけはない。とすれば、「過去」のバーディなら、真実が判明したあと、「今」のようには判断しなかったかもしれない。というより、そのような記憶自体が、精神融合によりごく最近偽造されたという可能性だってある(精神融合の初期症状として、回想シーンが挿入されるようにも感じられるからだ)。だから、いつの時点のバーディにとって、どのようなバーディ像が妥当かという問題は、傍目に決めることじゃなく、というかその時その場のバーディが決めていっちゃうものだよね、というかんじだ。

つかれた。仕切りなおし。

  • 鉄腕バーディ DECODE 02 には、作画崩壊呼ばわりされる第七話はあったし、細々とよくわからない描写(たとえばこんな→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090329#p1)の混じったアニメだった。それは、正確さとか、作品内統一性みたいなもので判断すれば、よいこととは思えないが、もはや少年ではないおれのようなおっさんオタにとってみれば、むしろ自分たちの現実認識に近い(つまり過去と記憶の混合物によって社会とつながり、ひとと触れ合っていく)界面で作られているように感じられ、やさしい。そういう感覚で出来ていて、しかもそれが殊更な状況でなく当たり前のものとしてスルーされているアニメって、ほかに見た覚えがない(どっちかっていうと「リアルとバーチャルが融合してセンセーショナル!夢見がちな胡蝶が機械の体で大冒険!」みたなのが多い)。だからバーディは、結構すごいアニメだ。すくなくとも現代の現実感覚みたいなものを見せてくれていると思う。
    • なんつーか、「こうと決めることで、そうだったということになっていく」みたいな感覚への意識が、現代にはある気がしている。田中ロミオ氏の AURA とか(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20080803#p2)。バーディの解釈は AURA とは別だけど、近いところへの意図があるような、べつにないけどそうとも読めるような。
  • 人間以外誰も欲しがらない概念だろうから、たぶん真実は人間によって作り出されるんだが、(観測や解釈などによって)真実というものの絶対性が実在しないことにより、完全な客観もまた現実にはない。しかしアニメとか創作の中にはある、または、ありうる。オタとして創作に溺れていると、まるで真実というものが絶対的であるかのような気分になってきたりもするが、まやかしだ。それと戯れていると楽しい。でもそればっかやってると息苦しい。おまえらの世界ではそうかもしれんが、おれたちの世界はそんなにわかりやすくない、というわけだ。バーディの世界に真実はあるけど、それは真実以外の持つ力と大して違わない。いやバーディ世界に対しては絶対的かもしれないけど、バーディという作品に対しては、絶対的ではない、ということかもしれない。あやふやなもので繋がっている、あるいは繋がっていなかったとしても、どうにかなる、その感覚がよかった。

ここまで。