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ヱヴァンゲリヲン新劇場版関連

日記遅延もひどいことになっているので、あんま足踏みしてても仕方がない。劇ヱヴァ関連の感想や妄想などをまとめて書き出してみる試み。本編の細かい部分とかについての視聴感想は、あんまりないので、見ながら漠然と思ったようなこと中心。まあなんだ、オタ同士でオタ映画見に行った帰りの居酒屋ではじまる、映画と関係あるような関係ないようなオタ話のようなもの。の、長くなりすぎたので、予定では前編。

ロボットものとして

といってもこれは、ジェットアローンはロボットだけど、エヴァンゲリオンはロボットじゃないのでアレ、みたいなかんじで、ヱヴァ日記に含めるのに筋のいい話かどうかで揉めるところだ。だいいちエヴァのアクション主体としての参照先はロボットでなくウルトラマンじゃろ(←ウルトラマン的な動きだという意味でなく、「ウルトラマン的存在がこういうアクションをする、それが 90 年代だ」という想定で見たときの現代感、その熱狂とそれに付随した残酷な興奮が、最大限に増幅されるのだ)的な話もあって。とかグズってても仕方ないんだよ。まあエヴァは作品としてロボット文脈も引きずってるはずだから一応。スパロボにも参戦してるしね(←スパロボ脳の恐怖)(←ところでスパロボにキャラクタとして収録される場合の用語は「参戦」固定になってる印象があるんだけど、それいつごろからかね)。

で、ロボットだから何なのかというと。お話のなかで、世界を守るロボットを操るパイロットは大概が童貞だ。それはなぜか、という話だ。…という話を現代にやるためには、たぶんアイマス X 的ななにかとかを参照しなければならないんだろうという気がしているけど、そっちは知らんので流そう。まあ単に商売の事情(例:「主人公をティーンエイジャーに設定する事情に加え、TV アニメ世界のティーンエイジャーが半公然とセックスしていてもよかったのは 90 年代後半の一時期だけだったから」)というのが簡単だけども、0 点だねそれは。そんなくだらない真実を突き破って虚空に星を見い出すのがオタクの眼力というものだ。「人類のなかで童貞にだけは、最後の最後で愛とエゴ以外のもの(つまり「正義」なるものをだ)を辛うじて選び取るポテンシャルがあると信じられているから、世界の命運を預けるに足るのではないか」あたりまではもっていくべきところ。

で、私利私欲以外のものに殉じてもいいという態度からなら、具体的に誰のためのものともいえないけども全体的な何らかの救いの無さを突破する、最適解をいきなり導き出せるのではないか…、という一見無理筋のギャンブル性があるわけだ。それが実現されたときにカタルシスが生じる。もちろん「うっかり自分と関係のない正しさを選び取りかねない」ってのはすごく危うい存在だけど(たとえるなら、サークル内人間関係がこじれにこじれて煮詰まった状況で、いまいち事情を飲み込めてない童貞騎士に強権を与えて、事態収集に当たらせるようなもの)、ふつうにしていてもグレートパワーとグレートレスポンシビリティの抱き合わせの苦悩は常にパイロットを苛むから、まあ誰がやっても分のいい賭けとはとてもいえない。そこへもってきて、普通の人間はサイコロ振っても 1 〜 6 しか出ないけど、童貞が振ったら 10 億分の 1 の確率で 100 の目が出るのだとしたら。じゃあいっそ童貞を乗せてみようじゃないか。そういう夢のあるお話。そして、そのような夢に押しつぶされる童貞の不幸。全体の幸福。とかなんとか。

正義の形骸化

まあスーパーロボットってわりと正義のために戦ってると思うんだよね。お父さんが作ったロボットに乗って、正しいことをしたり、あるいは、自分には特に定まった考えとかはないんだけど、とりあえず悪いことが確定してる相手をやっつけてみたり。最初のあたりでは「正義」っていうのはわりと道徳みたいなものに近かったのかもしれない(←細かいことをいえば、そこにはいろんなものが混じってんだろうしおれにはよくわからんので触れたくないが、たとえばそのー、前近代より近代がいいけど近代は前近代のマテリアルから出来ている、とか、国家は信用できないけど科学は信用していい、みたいな)。そのようなロボットの操縦者の資質には、教育された正しさを信じる純度が重視され、そういうポジションになら童貞が適役だったという。で、世の中の平坦でなさが明らかになってくれば、標準的な正しさが常に良いとは限らないという問題が付きまとうようになるし、あるいはもっと単純に、どっちの主張にもそれなりの妥当性があるんですけどみたいな事態が起きたりするから、面倒になってくる。そこまでくると、正義≒道徳では通用しないのだね。誰が助かったか、みたいな卑小なスケールでしか物事が評価されない時代になれば、誰のためでもないなら誰も救えません、みたいな卑小な誠実さの裏目に落ち込む。となれば正義≒政治みたいな感覚が必要になる。そして困ったことに、道徳的な正しさに特化した従来型の童貞は、政治的な正しさには滅法弱い。

役立たずのプロフェッショナルがどうにもできない膠着を(←とりあえず警察とか軍隊が能無しな世界設定)、アマチュアの純粋さが突破するという往年作劇(参照→http://artifact-jp.com/mt/archives/200306/proamateur.html)の別の断面かもしれんね。童貞ががんばっているうちにはプロフェッショナルの出番がないわけだ。で、そういう図式がだんだん崩れてエヴァンゲリオンの 90 年代までくると、もう誰もべつに正義のためには戦ってないよねというかんじになる。シンジはそれが正しいからなどという理由でエヴァに乗っていない(というか「それが正しいから」という理屈が、言い訳や不貞腐れの道具に落ちている)。ばかりか、ゲンドウのほうでも、別に正義みたいなもののためにシンジをエヴァに乗せているわけではない。「大人になれ」くらいのことはいうが、大人になることというのは童貞的な正しさから離れて事情に寄り添い、コントロールして、従わせることだと説明される。父親が息子(主人公)に全然正義を説かないのだ。しかもそれが「信じてもいない正義を説かない、つまり息子にウソを言わないだけ、ゲンドウはマシである」と肯定的に見れてしまう状況になってる。劇中で正義を語っているのはミサトくらいのもので、その想いも今作劇場版においてはなんだかちょっと押しが弱い。旧作終盤のミサトの執念は、童貞的な(キャラクタに期待される)殉じる力とは正反対の、粘り強い不純さからきていて頼もしかったが、しかしそこは読み方によって見解が割れるところか、まあ別の話だから置いとこう。

愛の台頭

つまり、正義をやりたいのなら、もはやそれは(正義を教育され、それを信じるポテンシャルの高い)童貞の仕事ではなく、(正義を実行する訓練を受けた)プロの仕事なのではないか、というわりあいぶっちゃけた状況に、このへん以降の作品では徐々に揺り戻っていくんではないか。人類最後の(イワン的な意味での)馬鹿砦であった童貞すらも疑り深くなってしまったので、誰もがロボットという世界最強暴力を正義のためには利用しなくなっていった。じゃあ正義のかわりに何のためにロボットを使ってるのかというと、それは愛だという話になる。で、「愛と正義」は「自由と平等」くらいには意味が違っていて、正義と同じ感覚で愛のためにロボットに乗ってもらっちゃうと、ヤバイ。どうヤバいのかというのは、たとえば 88 年公開の劇ガン「逆襲のシャア」で描かれていて、大雑把にいえば逆シャアは、いろんな経緯があったにせよ、ともかく往年の天才パイロット二人が愛と正義それぞれを代表して対立する話になっている。まあ二人とも、もはや童貞ではないし少年でもないんだけど。そこかよポイントは。

愛をやりこんだ人間が、やりこみすぎて縮退すると、アクシズを地球に落として「それはエゴだよ」とか言われる話になる。アクシズがどうにか落ちずに済んだのは、乱暴には逆シャアが 80 年代の作品だからだと言えもする。戻して、「単に悪いだけの敵役」の存在が許されづらくなって以降、愛はラスボスのアクセサリとして便利に活用されてきたりもしたという経緯もある(というか「愛と絶望を掛け合わせれば、中坊作品のラスボスいっちょあがり」のメソッドは現在でもわりと有効だよね)。愛はグレートパワーなんだけど回路が詰まると危ないって話か。その点正義はやりこんでも安全…でもないな、なんか正義が暴走してディストピアになったりするケースも結構多い。じゃあそれもだめだ。あとは、愛の暴走を食い止めるための安全装置としての正義、みたいな話か。ただ、正義というのは結局愛から出発しているのではないか、という話にもなる。暴走しない愛、あるいは暴走しても問題ない愛、人類愛とか宇宙愛とか、そうした模索は、よく知らんがニューエイジ界隈とかがやってそう。ていうか逆シャアがそれだよな。愛の自壊に地球を巻き込もうとしたので正義がそれを食い止めようとするんだが、どっちも不純物を吸引しすぎてわりとグダグダ、最期は愛でも正義でもない何らかの清浄なパワーがどうにかしてくれるという希望なんだかそれがない世界はポイズンなのか判断の委ねられるオチっていう。基本的にはガンダムさえ追っておけばそれで全部フォローできるんだろう。というより、これはガンダムによってロボットものに植え付けられた史観なのか。

やっぱりエヴァ関係なさそう

…といった、別のパターンについての脱線の話ばかり続けてしまったけど、戻して、たんに形式を受け継いでロボットに童貞を乗せ続けたら、それはたぶんセカイ系とかいうものになってしまうのだ。ピュアの限界に閉塞して「自分とその周囲さえよければそれでいい、というかそれしかできない」という路線を選ぶ主人公の純粋さを評価しつつ、旧来型の世界的問題解決に無理やりつなげようとすれば、主人公の周囲 3m に世界の命運を集約するしかない。そしてその方向へ作品が向かっていけば、見てる気分としても「世界の平穏よりも目の前の愛(や身近なコミュニティの権益)を取る、それがジャスティス」みたいな基準で評価するようになってくる。やーでもそれって体裁はオタクの純愛のようでいながら、実践としてはヤンキーとか DQN の力学に置き換わっていませんか、いやかなりアクロバティックでおもしろいからいいんだけど、みたいな。条件だけ並べるとギャグだけど、大真面目にやっていれば感動もする。エヴァンゲリオンにおいては「自分(と自分にとって大切な誰か)さえよければそれで…はよくはないだろ」と考えている人間が果たして居るのかどうか、というくらい徹底していて(可能性があるのはたぶん加持・葛城・赤木の 85 世代の三人組くらい?)、さすがに先鋭的だったのかなぁと思ったりもするが、なんかブレブレだし、やっぱこれエヴァンゲリオンの話じゃないような気がしてきたのでやめよう。

たぶん後編につづく(あんま続いてないけど続いた→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20100530#p1)。