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どろぼうの名人

去年書きかけだった感想日記。はてダの下書き機能を使うと便利だけど、書きっぱなしでほったらかして忘れてしまうことがあるので厄介だ。

中里十どろぼうの名人」を読んだ。寒くなってきたこともあってか、てのひらに汗はそれほどかかなかった。おもしろかったがむずかしかった。このむずかしさは、新城カズマ氏作品を読んで感じるむずかしさと似ていて違う。とても、とても挑発的なのだ。

「はじめまして、初雪ちゃん。――あら、お姉さんよりも美人になりそうじゃない? 楽しみね」
それは魔法だった。
姉は魔女で、姉の力は魔法だということが、わかった。この人も魔女で、姉と同じように魔法が使えるのだということが、わかった。
このとき川井愛が私にかけようとした魔法は――
――お姉さんに勝ちたいでしょう?
――あなたをお姉さんより綺麗にしてあげる。
――あなたの美しさを認めて、欲しがってあげる。
――だから、そんなにお姉さんにべったりでいるのはやめて、私のところに来なさい。
それが魔法だと気づいたときにはもう、魔法にかかっていた。美しさで姉に勝ちたいと思っていた。そのために川井愛の手を借りたい、と思っていた。
私は恐れおののいて、姉の背中に隠れようとした。けれどその瞬間、姉は私を背中から抱きとめた。
「そんなのあったり前でしょー? 私の妹なんだから」
それも魔法だった。川井愛の魔法を打ち消す魔法。

のっけからこれだ。

新城カズマ氏作品の主人公は、おれにとって「感情移入できないキャラクタ」の代表のひとつだ。できないといってもしたくないという意味ではなくて、ものの感じ方が違うので感覚が同期できないというかんじ(関連→http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060215#p1)。そのときそのキャラクタがその場で何を考えどう感じているのか、書かれるまでわからない。「どろぼうの名人」の主人公は、枝葉の部分の考えや感情はだいたいわかるんだけど、根っこの部分がわからん。まあ女子中学生である主人公とおっさんオタであるおれとで根っこが同じでも困るんだが、なんかそういう話でもないっぽい気がする。この場合の中里氏の書き方は、一言でいえば「自明なものは書かない」ということになって、主人公にとっての自明なものが、おれにとっては自明ではないことにより、なんだかわからんということになる。というのは、たぶん「愛」なのだねー。これは愛についての話なんだけど、その愛というのが何なのか、その感じ方、捉え方が主人公にとって自明であるがゆえに、描かれていない。感じ方や捉え方はひとによって違うから、主人公の感受性は推し量ることしかできない。あるいは、「これを自分は理解できる」と念じる、という処理ができる。それがつまり、中里氏の仕掛けに対して「挑発に乗る」ということで、この本の、というより中里氏作品全般の正しい読み方なのだろう、が、まだちょっとおれにはそれができん。

というように、むずかしい本だが、中里氏の描くおんなのこワールドは挑発的なだけでなく、攻撃的なので、その点オタとしての読みやすさはある。潔くブレがない。あとこの話は世界設定が難解だけども(千葉が日本から独立してたりとか)、そこいらへんは「1492」(http://kaoriha.org/1492/)とあわせて読めばいいかんじだろうか。