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「趣味は人間観察です」問題

ところで成句「趣味は人間観察です」は、いろんな経緯があってのことだが、発声即ち「自分は自意識過剰の痛いひとです」という主張を意味するので、取り扱いが簡単でない。ようするに、

  • 観察する側の人間である=行動する側の人間ではない=場の主流派に所属していない、まして集団の主導的立場に立つ機会などほとんどない人間である、と言っているのに等しい(もちろん個別の例外はあるが、それは後々カスタマイズしていけばよいだけのことで、データベース型の第三世代人間関係インデックス能でマッピングする際は、初期位置をそこにセットするのが自然だ)。コミュニケーション至上主義勢の用語で一言でいえば「さびしいひと」。
    • なぜここで「まして集団の主導的立場に立つ機会などほとんどない」とまで断定できるのかといえば、それができるひとの大概はそれなりの人間観察能力を持ちつつもそれをあくまで手段として使っているから。趣味的な観察はあくまで余技であって、同程度のタスクなら人間観察に限らずいろいろやってるわけで、わざわざトピックとして挙げるほどのことでもない、というかんじか。
    • ほとんど一般化してよいレベルで、この「趣味の人間観察」のノウハウは実地の人付き合いへ応用できなかったりする。
  • それでもなぜ自称として「趣味は人間観察です」が出てくるのかといえば、ここでいう「行動する側の人間」のやっていることの多くが、愚かなことであるから、そこに与しない自分は愚かな人間ではない、ばかりか他人の愚かさを肴にして楽しむ側の人間である、というふうな態度の表明であると、好意的には邪推できる。
    • 「さびしいひと」になってでも、愚か者に属したくはない、という自意識だ。その心意気はひとまずよしとすべきである。存在的・現象的なさびしさに耐えながらオタクをやってるようでは先がない。それと別の価値観によって自律しているくらいでなければ話にならない。ただ同時に、時には愚かしさに頭から突っ込むくらいの気概もまた、オタクには必要なのである。ここに「趣味は人間観察です」問題のむずかしさがある。まあそれはオタクの場合の話。オタクの場合でないなら単純で、「世の中にはいろんなひとがいる」で終わり。
  • 「さびしいひと」では大雑把で(我々が嫌うベクトルの)一方通行だから、もうちょっと踏み込んでみると、「周囲に自分と対等以上であると認識できる他者を見いだすことができず、かといって孤独になるほど強くもないので、不本意ながら周囲の愚かしさとの関わりを捨てることができないひと」というあたりになる。くだらなくないと思えることが周囲にあれば有意義にも生きられるだろうが、くだらないこと以外を見いだすことができなかったひと、ということだ。
  • このへんまで踏み込めば、この状況は「当人の自意識が過剰なので実際のマッチングが適正なのにも関わらずそれに対して不服」という最も単純な理解以外にも、「当人の観察力が低いので状況を正しく把握できていない」「そのような自意識をも育ててしまう環境側の問題」「あるいはそのような自意識を含む系は総体としてみれば健全である(のでこの状況は正しく、彼や彼女は「総体のための不遇」である)」「実際にマッチングが不適正で、精神の成長に身体性が追いつかない(孤立できない)という当人内部のギャップとして顕在化している」「実際にマッチングが不適正だが、正しいマッチングに再配置あるいは自分に合ったコミュニティを探してそちらに合流するための行動力が不足している、または幸運に巡り会わず諦めた」「実際にマッチングが不適正で、事実個人的な努力の範疇では地理的時間的金銭的に、そのひとに合ったコミュニティへたどり着くことが困難な状況」「当人の孤立を許さない環境側の抑圧」「ひとは空想のみにて生きることができないので、どれほどくだらないことにでも一応はコミットせざるをえないという防衛意識」云々と、いろいろ展開することが可能になる。

社会動物としてみた場合、つながりたい誰かを見いだすことができない状況が客観的に不幸である、というのは間違いない。そして(幸不幸で物事を考えるのはヤバいと根本的には思っているのだがそれは置いて)幸福は自分勝手に追求すべきものであるから、自分を不幸にするような世界観に向き合う道理はない、というあたりで、観察する側とされる側は必然的に相容れない。という部分を含めて(そこに生じているギャップへの意図を折り込んだうえで)、メタ的以外に「趣味は人間観察です」と発声するのはヤバい、ので取り扱いが簡単でない、というわけだ。やたら長い話になるなあ。

もうちょっと簡単にいえるか。「趣味は人間観察です」は、それを言ったあと相手から「じゃあぼくの趣味は「人間観察が趣味なひと」の観察です」と言われたとき、動揺したり苛立ったり対抗しようとしたりせず、互いにニヤニヤしあうだけの準備がある場合のみ、安全に取り扱える。てのがいいか。まあその向き合った二人が異性だった場合、むしろ最初は苛立ちを覚えるくらいのほうが後々往々にして恋愛関係とかに発展したりもするのだが。