貧乏の食卓
金がない中で生き続けるには金のかからない食事をする必要があり、また現代というのは健康な暮らしを金で買う時代なので、無教養で不器用な貧乏人は不健康かつ貧相な食生活を強いられる。いや強いられているわけではない。そういう暮らししか選べないよう生きてきたのはおれ自身だ。だからそれを嘆こうとは思わない。けども食ってる飯の味気なさは厳然としており、それがわからないほど追い詰められてもいない。
というわけでカップラーメンとレンジごはんを買ってきてこれにて一日分と定めてみたが(←製作と片付けの手間と掛かる値段の、咄嗟におもいつく中ではそこそこの妥協点)、どうにもこれが食い応えなくて困る。加熱したごはんの容器とお湯を入れたカップを持ってみた感触でいえば、これだけぶんの質量がおなかに入ればそれなりに満腹感を得られるはずであると思えるのだが、モソモソ食ってみたあとで感じるこの不満足感は拭いがたい。これまで真面目に考えてこなかったが、どうもやはり飯の満足感というのは腹に入れる重さだけでは決定されないものであるらしい。
ならばと思いつくのはアゴの疲労だ。噛む回数。ガキの頃から早飯で慣らし、現在に至るまで肉は飲み物だとか野菜は喉越しだとかそういったやさぐれた食生活観をよしとしてきたおれは食うときにあまり噛まない。これはよくない。行儀が悪いし貧乏臭いし消化に悪いし詰め込み効率が高いので大食になりがち。おまけにアゴも弱くなる。よく噛んでゆっくり味わうというのが、品よく少ない量で満腹になれて健康に近付けるいいことづくめの食べ方だ。おれは貧乏なのだからいままさにそれをやるべきだ。と思ったので最近はものをよく噛んでから食うことを心がけている。
でわかったんだけど、あれだなコンビニ弁当とかカップラーメンとかって、噛み応えが全然ダメなんだな。たぶんおれが感じていた不満足感ってこれが原因だった。噛もうと意識してみてようやくわかった。定食屋とか弁当屋とか店屋物とか、いちおうちゃんとその場で調理して出されるようなものはそれなりに噛んで食ってたのしいものだけど、保存食とか作り置きの弁当だと噛んでもいまいち楽しくない。気合が足りんというか。食事には気合が必要だったのか。それがわかった。わかっても、結局カップラーメンとレンジごはんを食わねばならないことに変わりはない。