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個体認識関連

話があっち行ったりこっち行ったりしたけど、一応メモ。

  • 昔、とある掲示板の OFF 会に参加したとき、「自分の存在はコミュニティの中で認知されているもの」として振る舞ってるひとが居るんだけど周囲はあんまそのひとのことを知らなくて戸惑ってる、みたいな状況があった。おれは元々あんま多くのひとを知らない人間なので「よく知らんけど有名なひとなのかなー」とか思って流してたんだけど、二次会で「ところであのひと誰?」みたいなかんじでみんな首をかしげていたという。
  • OFF 会から帰って掲示板のログを掘ってみたら、確かにそんなハンドルのひとが居て、「ああ、このひとだったのか」と納得したのだけど、特に個体認識する必要があるほどアクティブでもユニークでもないんだよなーという。暮らしのうえでも「人付き合いの中で、A さんと自分とで、持ち合う互いの情報量が不均衡になる」て状況はよくあるけど、ネットの場合その不均衡が極端になりがちで。ようは「相手を観測するためには相手からも観測可能の距離に近付く必要がある」という仕様上、暮らしのうえでの不均衡はある程度是正機会を持つんだけど、ネットの場合発信された情報(のうち、評価される情報)だけが共有され、それ以外は「存在しないもの」としてしか扱われない、といういつもの話なのだけど、そこに更に「どの程度の質量の発信をすれば、相手から認知してもらえるのか」のジャッジが不適正だと、やっぱり空滑りするということなのかもなーと思ったりした。
  • じゃあどうすればいいのかというと、「相手が自分を個体認識しているようだと判断したとき以外、自分の情報は基本的に知られていないという前提で世間話をしていればいい」ということになる。自分がどういう人間なのかを相手が理解しているか、また相手がどういう人間なのか自分が理解しているか否かで、与太話の仕方というのは変わってくるものだけど、知らないひと同士で与太話ができないわけではなくて、おしゃべりの楽しさの質もそれほどには変わらない。話がおもしろかったら自然と個体認識することになるし、つまんなかったらつまんなかったでそういう記憶経験値が貯まる。
  • 「アウェーの OFF 会はきつい」とはよく言うんだけど、その具体例として挙げがちの大規模 OFF 会とかって、ようするに「自分があまり興味を持っていないひとが大量に居る OFF 会」なんだよね。そこで行われるのは必然的に「売り込みの乱取り」みたいなものになるから、ただその場に居るだけでも気疲れするし、事前に根回しをしておいたり、またはよほどうまくマッチングが決まらないと、いきなり飛び込んで楽しむのはむずかしい。
  • 初心者が「とりあえず観光してみる」目的で参加する OFF 会の最低限の楽しさの保障は「自分が興味を持っている参加者が居るかどうか」で決まり、自分がほかの参加者に認知されているかどうかはあまり関係ないと思っている。興味のあるジャンル、テーマの OFF 会なら相手が誰でも大丈夫、というのはありがちの錯覚で、ネット上ではともかく OFF 会では(あたりまえだが)属人性も主要素のひとつとして勘定すべきだ。「自分が他者から認知されていなければ楽しめない」というのはかなり高いレベルの要求といえて、たぶんがんばって社交をやらないと、上で書いたような一人相撲で終わる。もちろん「互いによく知る同士で集まって、ネットでの遣り取りを相互補完する小規模 OFF 会」が最も手堅いんだけど、そんな人間関係なんてそう広く持てるものじゃない(←それができるよーな陽性のライフハッカーは大規模 OFF とかバンバン出ても平気な神経をしている)。

まとまってないけど、

  1. 「知ってるひとと楽しくおしゃべりする(または知ってるひと同士の会話を楽しく聞く)」はそれほどむずかしくない。
  2. よく知らない相手から話しかけられた場合でも、話題が主で話者が従なら、話を合わせるのはむずかしくない。
  3. したがって、1 と 2 の共犯関係が崩れないかぎり、「よく知られているひとが居る OFF 会に、よく知られていないひとが参加して、楽しく過ごす」のはむずかしくない。
  4. しかし、自分のことをよく知らない相手に、話者が主で話題が従というアプローチで話を仕掛けると、うまく噛みあわず空転する。

とかなんとか。

最近のインターネット - 「落ちてた」「拾った」関連

いや全然最近の話ってわけでもないんだけど。

  • ネット上の、権利がよくわからないものを私物化する(…完全コピー可のデジタルデータにおいては、「私物化」といっても独占という意味でなく、「権利者の裁量をその場において代行する」という意味になる場合が多い)表明として「落ちてた」「拾った」って言い方があって。いっぽうクライアントとサーバには「アップロードする」「ダウンロードする」という言い方の関係がある。
  • 設計としては、ネットにおいてクライアント(私的領域)は「下」でサーバ(公共領域)が「上」なんだけど、「拾った」「落ちてた」という言い方をするとき、公共は私より下の位置にあることになっている。というのは暮らしの比喩をネットにそのまま持ってくることによる齟齬かなー。つまり「落ちてるものは拾って私物化してもいい」という考え方。
  • その考え方の善悪や妥当性は今回どうでもいいということにして。ネットで「落ちてた」とか「拾った」とかいうひとは、「私物化してもよいことにするために、「それ」は下に存在しなければならない」という無意識的な位置調整をしてるんじゃないかなーと思うとき、それって妙に真面目な考え方だよなと思ったりした、ということを書いておく。
  • アングラ、つまり「下に位置する界隈」を自分のフィールドと自己規定するような類のひとは、ふつうに「落とした」「ダウンロードした」という言い方をしがちで、たぶんこれには「上にあるものを引き摺り下ろす」というトロフィー的な考え方が重なってくる。

つまり、「落とした」って言い方をするひとと、「拾った」って言い方をするひとは、結果的に似たようなことをしているんだけど、自分がどこに立っている(べきな)のかという自己認識の調整の仕方が、全然違うんじゃないかなーという。単純に、誰かが「落とした」ものを「拾った」という、順番の問題ともいえるんだけど。