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夢占い vs いつもの押井

2006 年夏のアニメ映画は「ジブリになりたい「ブレイブストーリー」、ジブリの息子の「ゲド戦記」、ジブリから出た「時をかける少女」」の三陣営でジブリ継承戦争のアングルがおもしろかったなーと思い出したりしたのだが(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20060902#p3)、2008 年夏は宮崎駿氏の「崖の上のポニョ」 vs 押井守氏の「スカイ・クロラ」という冠に「世界の」がつく系のアニメ大御所による間接対決(いまのおれの感覚でいうと魏 vs 呉らへん)というかんじで、これもたぶん結構おもしろいのだった。

とはいっても、べつにアニメ映画同士を並べてみて勝った負けたもくそもないわけで、具体的になにかが戦っているわけではなく(キルドレ?)、また両監督の最終作という位置づけでもないわけで、総決算 or 決戦的なムードもない(三国志でいうと「あーまた合肥らへんで恒例のアレが」的なかんじ)。となれば両作品を鑑賞したオタなどが各地で感想芸を披露するといういつもの展開に終始。ちょっと時節柄がよろしいので今年は比較的華やかですね、みたいなかんじか。

で、両作品の感想をツラツラ見比べてみると、全体的な傾向みたいなものが見えてきておもしろい。かんたんにいうと、ポニョの感想は「夢占い」系に集束し、スカイクロラの感想は「いつもの押井」言説に集束している。

  • おれの場合、「ハウルの動く城」までは宮崎氏作品から意味を読み取ろうとそれなりにがんばってるんだけど、今年ポニョは「これは無理だろ」と投げたよ。びっくりしたもん。すごい映画だったとおもうよ。意味だってもちろんあるんだよきっと。あるんだろうけどそれを汲み取って言語化して感想として書き出すっていうのは、夢占いにしかならない気がしたんだよ。おれは宮崎氏の夢占いをやるためにポニョを見に行ったか?おれの仕事は宮崎氏の精神分析か?どっちでもない。だからこれは書けんよ。ものを食って出たうんこは自分のものだから、ポニョを見た日に見た夢の日記なら書けるけど。それは覚えてないんだよね…。
  • スカイクロラは、見に行かないことにしたので自分の感想は特にないんだけど、あちこちで「いつもの押井」言説を目にしたので、「あーいつもの押井だったのかー」と理解して、そこから「見てないのにまるで見てきたような感想を書く」という芸なら普通に出来てしまうような気がしている。これは、「イノセンス」公開のときとは違う印象だ。イノセンスのときは、「イノセンスを見ることはないんだけど、イノセンスを見たひとの感想を総合して本編の印象を脳内で再構築してみよう」という遊びをやっていた。スカイクロラにはそこまでの熱量を感じていない。ブラックボックスが小さくなっているかんじ。

ポニョの感想を書くと夢占いになっちゃうのは、ポニョがわけわからなすぎたからだろう。スカイクロラの感想が「いつもの押井」なのは、スカイクロラがよくわかりすぎる話だったからだろう。とりあえず両監督は、ものすごい数のファンから愛されているという点で共通しているとはいえる。ただ、押井氏ファンの物言いとして、「いつもの押井」言説はちょっと強すぎるから次のロケテでは要調整かなーと思った。押井氏作品を語るときに一貫するキーワードはこれで、文脈はこれで、というような、「押井氏作品の正しい読み方」がファンコミュニティ側で整備されすぎている。ネットはそれを増幅し、強化するから、そこから軸をズラすことが極めてむずかしくなっている気がする。じゃあ宮崎氏のほうはどうなんだというと、意外と「いつものハヤオ」とは言われてない気がするんだよなー。いや「やっぱりいつものハヤオだよ」という感想もそれなりにはあるんだけど、ファンコミュニティ側で「いつものハヤオ」を念仏フレーズに昇華するほどには、キーワードや文脈が整備されていない印象。

それは単に押井氏と宮崎氏の仕事の質の違いというか、押井氏のほうがより愚直に「わかりやすさ」を追求しつづけて、宮崎氏はどちらかといえば嵐のように渦巻いて己がなにかと疑うこともない、みたいなかんじが、受容するファン側の形質に反応として立ち現れている、という話かもしれないんだけど。

とはいえ、ポニョを経過したあとの世界を想定すると、宮崎氏も次回作あたりでは「いつものハヤオ」言説がかなり強化されているのではないかという気がしている。「感想する個人」としてならともかく、ファンコミュニティの動向として、いつまでも妖怪を妖怪のまま受け止めるほどの柔軟性を現代情報化社会が保ちうるとは期待できないところがあるしなー。分析や解読など、想像力を枯らして皆が安心できるような受け流し技術が共有されていくんじゃないだろうか。一方で押井氏作品は…、最強に強まった「いつもの押井」言説の瓦解が起きるか起きないか、というあたりか。文脈とかでなく、もっと問答無用なファン層の若返りとかでそれが起きるとすれば夢のある話かもしれない。

ところで押井氏作品についていえば、おれこのところ「ビューティフルドリーマー→劇場版パトレイバー 1 →劇場版パトレイバー 2」の三作を繰り返しループ視聴しつづけているので、全然「いつもの押井」を実感できてない。このへんまではむちゃくちゃ変わってきてるよね押井氏作品。たぶん「いつもの」がはじまるのはこの後の劇場版「攻殻機動隊」からで。子供が終わって大人になっちゃったあと、次に何になればいいのか、というのが見えないと「いつも」の先にはなかなか進めない気がするなあ。宮崎氏の「いつもの」はどのへんから辿ればいいのかな、やっぱ「千と千尋」あたりから?