matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

不器用な中年男の寂しさに忍び込む正義

Twitter 上で劇場版パトレイバー 2 に関する議論を読んだので、それをきっかけにパト 2 でも見るかーという気分になったけど、そのまま見てもアレだなと思ったので、スライドしてパト III を視聴。おもしろかった。そして地味。人狼も地味だしなー。いやパト 2 もイノセンスも地味よな。というか、なにをもって地味というのかという話でもあるな。アクションシーンがどうのって話ではない。華のあるキャラクタが居るかどうか、みたいな部分か。そういうものを見たいと思っていないので、いまの気分に、これらの作品はおそらく合っている。それでなくとも最近のおれは、とにかくにも人狼を見すぎている。

というあたりでボヤボヤと考えたんだけど、パト 2 の後藤といいパト III の久住といい、中年おやじの哀愁が良い。後藤は南雲とうまくいっておらず、久住は家族と別居中。恋愛や家族がうまくいかなかったら、残りの人生は仕事と趣味ということになるが、警察官の場合にはそこにもうひとつ「正義」がある、というような仕立て。この図式ってアメリカの刑事ドラマとかでもよくあるんだよな考えてみれば。家族とうまくいってない不器用でタフな刑事が執念で犯人を追いつめるみたいな。ただ、アメリカドラマの刑事たちの正義感が「保安官の正義」みたいなものと通じてるかんじなのに対して、後藤の正義感ってたぶん「ウルトラマンの正義」とか「科特隊の正義」みたいなものなんだよね多分。どこか浮いてるかんじ。その「どこか浮いてるかんじ」が、南雲とうまくいってない部分にも通じてるんだろうかなー、みたいな。久住の正義感は、どちらかといえば保安官のそれに近いのかもしれないが、なにせ状況のほうが特殊すぎるので、持て余す。人間の悪党と相対するときの「噛み合ってる」感が妙におもしろい。一本木でやさしさもあるが、人当たりがいいとはいえず、どこか捻じ曲がってしまっており、そしていまさらそれを変えるつもりもない。

あと、人狼にせよパト III にせよ、若い警察官が(ある意味)恋に破れて孤独な職業人になってゆくような話でもある。伏の場合、そのようになるべくしてなったというかんじだが、秦の場合は、そうはならなかったかもしれないという感覚。まっとうな社会人というのは、なにかを捨てないとなにかを為しえないというような、そういうものではないと思うのだが、彼らはそのようではない。まっとうから徐々に脱線してゆくのだな。しかし「失った」とか「捨てた」とかの過去はそれほど大事ではなくて、ある瞬間に気が付くと、「自然と「それ」を選んでしまう、あるいは、「それ」以外の選択肢を持たない人間になってしまっている」ということなのかなーと思わなくもない。

伏を評する搭部の台詞にある、

「だがどんなに痛めつけられても、獣として生きることに、安らぎを感じる者も居る」

「獣として生きるしか、ない男でしょうから」

らへんか。