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メタ日記関連

日記者としてのキャラクタコントロール論とかたまに見るんだけど、逆だ逆全然わかってねえなと思う。ようはキャラクタ A として振る舞う際、キャラクタ A であることを表明することによってキャラクタ A たろうとする誤り。「私はサバサバした性格ですが」とか書きつつ他人へのネガティブ印象を書き連ねたり、新海誠氏作品をみて「おれもがんばろう」とか書いた日記人格が次の日付で Ragnarok Online 廃人日記を書くとか、そのレベルの杜撰。日記人格というのは日記自体から表出するキャラクタ性のことなんだから、有言実行以外ありえないのだ。なにを書きなにを書かなかったかで決定される。不言実行の領域は日記者の実人格の話で、日記人格とは無関係。書いたことは必ずあり、書かれないことは、ない。ということから、キャラクタを先に決定することの不毛さが導き出せる。制御が面倒くさすぎるのだ。先に書いてみて、結果的に決定される人格を受け入れてゆくほうが妥当だし、合理的でもあるし、だいいちそのほうが日記書いてておもしろいのだ。書き出してみないとわからないことというのはあるし、また指走った思ってもいないことに引きずられてしまうロデオ感もたまには良いだろう。

というあたりが下敷きで、しかしあらかじめまったく制御できないのかというと、そんなことはない。まずやってみて受け入れるしかないというのは、「どうせ核から全体を表現できるほど想像力も集中力も持続力もないだろう」という話だ。仮にあっても、そんなコストは日記に対しては費やすべきでないしな。枝葉から全体が作られるなら、その枝葉をある程度フィルタリングすればよい。日記においては、文体や語調がそれに当たる。こう書く、あるいはこういう書き方をしない、というのはシンプルで、しかし効果の高いコントロールといえる。もちろん、なにを選びなにを選ばないかという部分で、効果は違ってくるのだが…。

  • 日記で「まあ」を多用しだすとオッサン警報第三段階(口語で「アレ」を多用しはじめるのと同じ危険レベル)。まあおれの日記のことだ。
  • 日記で「はっきり言って」と書くのはオタ美学違反。はっきり言うやつは「はっきり言って」とか文字数無駄にせずさっさと結論だけ書いてる。逆に「はっきり言って」と書く日記は、はっきり言ってないことのほうが多い。
  • 「つまり」を多用してる日記は逆に読みづらいが、それは「つまり」を多用せざるをえないくらい遠回りな表現を多用しているからだ(フォントをいじりすぎてなにが重要なのかサッパリわからないテキストサイトみたいな状態)。つまりおれの日記のことだ。「要するに」も同様。

などなど。長く他人の web 日記読んでると文体のクセは緩慢に変化していくことがわかるけど、しかし変わりつつ変わらない(ように感じられる)何らかの核のようなものは想定できはじめる。これがつまり、日記人格だ。それが実人格と違うことは、あまり意識しなくていいが、まあ OFF 会とかで会う可能性がある場合には意識しておくべきだろう。はっきり言って。ねこだいすき。めんぼう。