matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

絆のイデア

延々もやもや中だが煮詰まってきたので吐き出し。ゲームにおいて「深い絆で結ばれた仲間たちと広い世界を冒険する」っていうお題目に魅力を感じるか否かはさておいて、また正しいか正しくないかでいえば正しいんだろうなあと判定するとして、その具体例として挙げられているタイトルが聖剣伝説 2 だとか FF 3 だったりの、オフライン世代の RPG だったとき、我々はどんな顔をすればいいのか問題。

  • 「深い絆で結ばれた仲間たちと広い世界を冒険するゲーム」という題目を現代向けにオタ機械翻訳すると「パーティ強制型の MMORPG で廃人になる」というかんじになってしまうと思うので、確かに現状は(そのような欲望を幸福に具現化するのがむずかしいという意味で)あまり豊かだとはいえない。
    • その点 XBOX Live などで実現されている「浅く短間隔の関係性で結ばれたフレンドたちと狭いマップで対戦または CO-OP する」というモデルは現状の最適解だと思っているし、実際だからこそおれは MMO RPG でなく XBOX 360 を選び、遊んでいる。ただ、これは人間関係でいえば、それこそ「真の友情」とか「全人格的な付き合い」とかからは遠いわけだから、なんか物足りないひとには不適なんだろうなと思う。
    • また、そういった人間関係モデルって、けっこう面倒くさいんだよなと思っている。ムラ的というか、学校的というか。固定メンバで閉鎖環境におしこめられて一定期間はなかよく一緒に過ごしなさいみたいな環境側の強制があると、バッチリ活きてくる考え方ではあるんだけど。現代的に考えられる人間関係は、個別のコンタクトを効率化して漠然と薄く広く接触機会を増やすみたいなかんじになってるんじゃないのか。
    • なぜそうなるかといえば、みんな「自分がやりたいことに誰か付き合ってほしい」とは思っていても、「自分がやりたくないことに付き合わされたくはない」と思っているから。付き合いたくない場面があれば、そのセッションから離脱すればいい。それができるためには関係強制力が強すぎないことが必要。やりたいことがあるとき、興味のあるひとに気軽に参加してもらい、ないひとには参加を強制しないよう、広くフラットにメンバを募れる環境が合理的。集合と解散(離脱と合流)のためのコストが低ければ低いほどいい。見たい場面、居たいときにだけ誰でもいつでも参加できる状態。まあそんな理想的にはいくわけないので、とりあえず皆さんその状態を目指しつつ、いい具合に努力していきませんか、みたいなかんじ。
  • で、「深い絆で結ばれた〜」という欲望は、そういった広く浅い付き合いモデルと相容れない。むかしの、交際範囲が狭く、流動性が低く、おもしろかろうがつまらなかろうが身内の集まりに付き合わざるをえなかった時代の人間関係においての、幸福な事例を理想としている。
  • あるいは、SNS とかのコミュニティを母体にして集まっているような MORPG のプレイヤグループとかには、これに近い幸福があるのかもしれないな。いまだとモンスターハンターとかあのへん。むかしの PSO が幸福だったように。
  • 個人的な思い出としては、PCE「ダンジョンエクスプローラー」において「深い絆で結ばれた仲間たちと広い世界を冒険するゲーム」という題目は達成できたかな、という気がしている。よくつるんでいたオタ友たちとワイワイいいながらあそんだ。シナリオとかサッパリ覚えてないけどまあどうせガントレットのパクリゲーだしどうでもいい。当時は PCE が大活躍で、「ファイヤープロレスリング」→「ダンジョンエクスプローラー」→「モトローダ」のループだけで半年くらいは余裕でいけた。余談。

あとはー、なんというか、その「絆」っていうものの例にオフライン時代の RPG が出てくるってのが、なんかどうも切ないところよな(聖剣伝説 2 はローカルでマルチプレイできるけど、例として FF 3 も挙がっていることから、これはプレイ形態でなくゲーム内のシナリオのことを言っているのだと判断)。その絆で結ばれた向こう側に人間が居ない。というか「絆で結ばれたこちら側」もプレイヤキャラクタまでで止まっていて、そこからさらに続いているプレイヤまでの導線は、コントローラのケーブルであって、絆ではない。人間の居ない場所に絆のイデアを見てしまい、そこに見惚れて踏みとどまるという、それが幸福なのか、不幸なのか、決めるのは当人の仕事だが、どうにもな。まあ確かに、最近は暮らしの中で絆っぽいものにお目にかかる機会は減ったし、たまにあってもそれが美しいばかりのものではない気がするから、そのイデアがゲーム上でだけ結晶化していたとしても、問題があるとは全然思わないけど。

曖昧だけど、現代化って「絆みたいなものに頼らなくてもあんまり困らないように」みたいなかんじで進められてきたんじゃないのかな。そしていまだ人類は絆を払拭できずにいる。ばかりか、その試みは頓挫しつつあるか、すでにしている。よくよく考えてみれば、あまり直視したくないほど醜い絆なら、わりとそのへんに転がってるような気もする、見たくないものだから、視界になるべく入れないようにしているけど。って考えると、結構多いな絆。うーん。それがやりきれないがゆえにイデアに拘泥するのか、あるいはそれを見なかったことにしたいがゆえの空疎な感覚から「美しい絆」を希求するのか、みたいな。どのみちそれは「表現としての絆の有無」の問題で、アレだが、曖昧。もうちょっと考える。