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「好き」「良い」「正しい」

褒め方、というほどのことでもないが、なにかに対して取る肯定的な態度として「好き」「良い」「正しい」などがある。この逆は、「嫌い」「悪い」「誤りだ」になる。大雑把なひとはこれらをあまり区別しないし、またセンスの良いひとは意図的に混同させつつ駆使するが、細かい話をすればこの三つは前提がかなり違う。

たぶんこんなかんじ。

× その態度の前提とするもの
好き 嫌い 主体性
良い 悪い 文脈の理解
正しい 誤りだ 体系の理解
  • 「好き」「嫌い」は、発言者の主体がなければ判定できない。でもまあふつう主体のない人間は居ないので、もっとも要するコストの低い発言ではある。
    • 「好き」「嫌い」は対象への評価のニュアンスを持ちながら、その発言自体評価を受けるニュアンスをほとんど持たない(意図と生じる関係性が極めて直線的だからだと思う)。ただし、それゆえに集団において「それを好き / 嫌いという主体」についての分析材料にはされる確率が高い。
    • 主体性を発揮したくない場合、ひとはなにかについて「好き」か「嫌い」かを(誰かに先んじて)表明するのを避ける。
  • 「良い」「悪い」の判定には、流れを踏まえたバランス感覚と視野が必要。センスともいう。
    • 「良い」「悪い」は「好き」「嫌い」と違ってそれ自体評価対象になりうる。センス闘争であるから、なにかを判定すること、それ自体が判定を受ける(つまり「センスの良し悪し」が客観的に問われる)。
    • 判定の流動性が高い。時と場所によって、支持される判定が食い違いやすい。
    • センス闘争は敗者復活がむずかしい(「センスが悪い」と判定されると、過去の判定を新しい発言で覆すのがむずかしい)。その場合逸脱するしかないか?
  • 「正しい」「誤りだ」の判定には、それが含まれる体系への広く深い理解が必要。所要コストが最も高いが、センスはさして必要としない。
    • 「正しい」「誤りだ」は「良い」「悪い」同様にそれ自体評価対象になりうる(「○○は正しい」という発言自体が正しいかどうか、客観的な検証を受ける)。
    • 判定の流動性が低い…というより、同じことについての正解は常にひとつであるのがたぶん理想だが、現実にはやはり多少の食い違いは生じるし、時代の正解が新時代に訂正され続けるという意味では、やはりある程度の流動性は健全さの証かもしれない。
    • 正誤の判定は、それもまた正誤として判定されるため、闘争ではない。したがって、誤りだと判定されてもテーブルを去る必要はない(下された判定に不服ならその判定をさらにまた検証すればいいし、なるほどと思えば訂正すればいい)。
    • 応用として、「正しい」の枕に「政治的に」とかをつけることで、文脈に沿った発言を体系を踏まえた発言であるかのように迷彩するテクニックもある。

おれの年代のオタの場合、たぶん中学あたりまでは「好き」「良い」「正しい」の区別がつかなかった。高校から先あたりで徐々に分化して、大学になる頃には「好きで良いけど誤り」とか「悪くて誤りだけど好き」とか「嫌いだけど良くて正しい」とかいろいろ自分の中で整理がつけられるようになった、かなあ。まあでもこのへん田舎育ちのアレなので、都会のマセガキはもっと早めにケリをつけている話かもだ。

もちろん、なにかについて「好き」とも「良い」とも「正しい」ともいえるようなオタを目指すのは、それこそ「正しい」オタクの態度とでもいうべきものだと思う、これについては、まあ「政治的に」の範疇っぽい気はするけど。