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地方東京問題雑感 2006

井の頭恩寵公園 | 060504

おれの場合でいうと、地方東京問題が盛り上がりかけたのは、オタク vs サブカルの筋合いから。ユリイカのオタク vs サブカルの打ち上げイベントのときだったので、去年の五月頃か。ちょっと考えてみたところで「これ以上考えていくと、なんかめんどくさい領域に足つっこみそうだな」という勘が働いたのでそこで思考停止していた。ので大して考察は深まっていない。

  • 東京でサブカルのひとの話を聞いていると、「ああサブカルにとっては東京在住の優位性というものが厳然とあるのだなあ」と納得できる。何年頃のどこそこで、みたいな話になるので。時代と土地に根付いている。そしてその土地はだいたい都内のどこかという話になる。その場に居ることができたか、空気を感じることができたか、というのがかなり重要と。あとはなんだ、ある程度以上の規模の都市にならないとサブカルのひとを受容してくれる類のレコード屋とか古着屋とかが成立しないのかな?とかそういう想像(そういう店を必要としたことがないので、おれにはわからない感覚)。
  • というか、そういう話ばかり聞いているとだんだん「結局彼らのいってるようなサブカルって、日本でいうと東京以外では成立しないってことなんだろうけど、それが必然的に東京以外で成立しないのか、それともたまたま東京以外のサブカルがうまくいってないってことなのか、どっちなんだろう」とかいう疑問が芽生えてくるわけだが(サブカルというのは、それこそ「○○在郷サブカル会」みたいなかんじの地域密着型のコミュニティとかがあるとして、そういう各地のサブカル的地域性とかが相互に影響を与え合って出来てる文化というわけではないの?単に東京で生まれ東京で発展し東京で滅んでるコンテンツが一方向通信で東京から全国へ向けて流出してるってだけの話?)、いまのところそのような質問をする機会がない。
  • でもなー聞くまでもなくある程度「メディアの有無」みたいな部分だけが重視されてる雰囲気は感じるので、そこはやっぱりなんのかんのありつつ結局東京ってことですよ、みたいな話なのかもしれないなと思ってもいる。これまでの話としては。今後には、東京以外のメディアが出来たり、メディアが東京から浮ついたりする未来もあるかもしれないので、そうなったときにサブカルはようやく東京のものじゃなくて日本のものになるのかな。まあ高度情報化社会に我々が真っ先に目にした光景は、つまるところ地域格差の平坦化でなく極端化だったわけなので(みんなが日本地図のうえに住んでた頃は、各人が住んでる場所というのはごくなだらかな傾斜が延々連続してつながっているものでしかなかったんだけど、ネットによって距離感が消失して以降は、その位置情報の差にあった意味の大部分が抜け落ちて、単なるギャップとして立ち塞がってしまった)(でなければ 21 世紀にもなって「地方東京」を問題視すること自体馬鹿げている)、いまのところそうなる気配はないが。まあそういう単純化は、ようするにのっけることのできる情報や属性の少なさ、ネットワークとしてのチープさにも問題があると思われるので、それが改善されていくことによって多少マシになっていくんではないかと思う。
  • とかなんとかあるけどおれはサブカルじゃないのでわからん。想像。想像。
  • オタとしての自分の話でいうと、べつに田舎で苦労したという覚えがない。漫画アニメゲームの三大要素は、ようするにインフラにのっかってわりとまんべんなく全国に配送されているコンテンツだ。さらにいえばおれはどちらかといえば「勉強してオタクになった」タイプだから同時性などへの意識も希薄。主に好んだジャンルの問題とかもあろうけど(アイドルとか声優のファンとかだったら地元でイベントがなくてギギギとか、そういう感情があるのかも)。現在東京に住んでて「あのころ東京に住んでたほうがなにかと有利だった」というような話をされても、ああまあそれはそうだったかもねと思いつつ、それがなくてもオタクとしては十分やっていけたわけだしな。費やすコストに対して得るものは田舎のほうが少なかったんだろうなとは思うが、そこまで上昇志向はないわけだしなー。苦労っていえばまあ苦労だけど、若いうちの話なのでどっちかというとそれ自体手応えってことになるわけで。そういう意味でのやりがいが不足するほどオタ環境に不自由していれば、さすがに問題だろうけど、まあ田舎といっても自転車で行ける範囲にそれらしい物件の置いてある本屋の一軒でもあれば、あとは気合と情熱でどうにかなっちゃうもんだというか。
  • とはいえ田舎暮らしはオタにある程度の志向を与えるかなという気もする。志向というか、「どういうオタになるか」という自由度の制限というか。たとえば田舎なのでとりあえず作品は置いてあるんだけど資料集だのインタビューだのが載ってるようなサブコンテンツの質量が少ない。ので「作品内に存在しているものだけがすべて」という作品観でものを見るようになりがち、とか。あんま楽屋話とか裏設定とかギョーカイ人の喧嘩がどうのとか、そういう話を知る経路がないので、そもそも「そういう話をおもしろいと思う感受性」が育ちにくい気が。東京在住なら、「作品だけ」「シーン含めて」どっちの志向も選ぶことができるだろうから(そして第三の選択肢、両者を内在させつつ適当に調停するスタンスが「いけすかない東京人」とか「メタ視点」とか言われるんだとおもう)、そこはやはり東京在住のアドバンテージといえる。土地の人間が作ったものだから、土地の人間にだけわかる空気みたいなものはあろうし。
    • あー、そうかそこで「わずかに入ってくる業界話とか裏設定とかアングル話のほうが、アニメ本編とかよりも好きになってしまうひと」とかが、地方出身という経歴をルサンチマンとしてドライブさせることによって、たまに東京で吹き上がったりするわけなのか。
    • こと「空気」の話になりはじめると、サブカルと同じ話になっていくわけか。若者が新規にサブカルに入門しようとする場合、同時代性とかをあとから勉強して獲得するのはほぼ不可能なことで、そこの障壁は土地差の壁よりもデカいだろうなと思ったりするんだけど(体験や記憶でなく教養としてしかそれを取り込むことができない)、田舎オタは東京オタと比べて教養寄りになりがちっていう性質の問題はそれに似てるのかも。
  • そして、現代のオタ界隈の話をすれば、サブカル的な格差とはどうしても向き合っていかなければならないだろう。昔話としてであれば、乱暴に要約すると「おまえら田舎サブカルは生れ落ちた場所をものごころついたあと選びなおせなくて不幸でしたね、でもおれは幸いにしてバカでハッピーでラッキーだったのでオタの道を(自動的に)選んで、田舎に生まれ暮らしたことを不幸と思わずに済んだ」という話だったんだけど、いまは状況が違う。なにしろ情報化社会だ。西東京のまことだろうが札幌の洋太だろうが全員ゼロ距離とわずかの時間差でつながっている。たとえばむかしならさほど問題にならなかったアニメの放送時間帯の違いが浮き彫りになった。「おれのとこだと来週だからネタバレするな」「東京と大阪で 30 分ズレる」「うちの地方では放映してない」みたいな。そういうものがあらゆる局面に存在する。かといってギャップから退却して同じ地域の仲間内にひきこもっても無意味だ。同じ地域の連中もネットやってるんだから。すでにある人間関係はそういったギャップの向こう側へも地続きでつながってるから。ソ連は旧世紀に崩壊した。いまさらやめるわけにはいかない。
  • おれが現代にオタ少年だったなら、この状況でかつてのように無邪気にオタオタできたかと考えると自信がない。様々のインフラのなかで情報だけが極端な高速化に成功した。物流だって大量に高頻度に細密になったと思うがインターネットのように一部では光速にまで届こうというほどではない。その極端さを頭と体とで現実に生じたギャップとして受け止めつつ生きなければならない。状況設定が違うのだから目標設定も変わるのが自然で、だからいまもしおれがもう一度オタクをやりなおすなら、べつに以前やったとおりの道が正しいものではなくなるのだろうけど。
  • 頼りになる言葉を探してみたら、ちょうど「トップをねらえ!」の絡みで考えていた新城カズマ「サマー / タイム / トラベラー」の文中で登場する、自転車屋のキャッチコピーが思い浮かんだ。「手の届く最良のものをつかまえて、そいつといっしょに歳をとれ」だ。店名は「裂け谷(Rivendell)サイクリング」といったので、指輪物語と関係のあるネタなのかもしれない。
  • 「手の届く最良のものをつかまえ」るというのは、手に届く範囲というのが体感する世界のすべてであり身体的な限界、最良のものというのが世界と己を見定める目と慎重さで、「そいつといっしょに歳をとれ」を情熱×我慢=時間、と理解すれば、それは確かにいい知恵だと思える。だがそのまま実行できるのは賢人だ。ボンクラは見定める目を持たない。精神力がない。限界もわきまえない。だったら我々には無理な話かというとそうではないと思う。手の届く範囲のものしか好きになることができないのではないかと思う。その愚かしさゆえに悩むことなく進んでいける。世界をデザインする必要がない。そこまでは届く視力がない。という安心と信頼。

長くなってきたのでこのへんで一旦切るんだけど、以下書き漏らし。

  • 都市と地方と家出(このへん相当いいかげん)
    • 田舎における家出と都市部における家出って意味が違うと思うんだけど、その感覚の正誤を考えたことがあまりない。なお、ここでいう家出というのは、一時退避のことでなく「これまで暮らした家を(自分がそこに戻らない可能性を考慮のうえで)出る」という行為。一般的には、大学進学とか就職とかそういうタイミング。あまり「家出」という用語は適切でない気もするけど、感覚的にはしっくりくる。
    • 田舎における家出というのは、「これまで住んでた街より規模の大きな街へ「出る」」という意味になる。自己の成長に伴って、家が狭くなり、街が狭くなり、足りなくなったので、もうちょっと広く多様なところへ移動する、という感覚。そのスケール拡大路線は、もちろん最終的に東京に至る。東京よりデカい街は日本にないわけなので、万一東京で満足できなくなれば、さらに外国へ出るという話になるかと思う。が、世界でも東京ほど漫然と「都心部」の面積のデカい都市は稀らしいので(それが先進的であるかどうかはともかくとして)、まあやはり世界的に見ても十分「最終ゴール」に足る街ではあるだろうとは思う。
    • 都市部における家出というのは、量的な拡大路線と変質的な路線が最初から意識されることになる。これが「東京がスタート」とかになると極端で、国内にいるかぎり量的にはこれ以上を望めない環境とみられている街なのだから、「東京からの家出」には、むしろ質的な問題のほうが重要になってくるんではないか。田舎スタートの場合の「東京でも足りずさらに海外へ」のスーパーエリート路線の場合でも同様で、質的な家出という意味合いを含むだろう。逆にいえば、出身がどこであろうと、とりあえず東京まで来た人間は、東京から家出する際に「家出する東京人」という役割を負うのかも。
  • 「現場」の拡散と、二十一世紀型田舎重武装オタの処世術→地域性を絡めるとギャップが問題になる、のだから、ネットだけで完結している「現場」にだけ興味をもち、そこに集中していくことによって、地域差なき全国大会を戦いつづけることができる。ただまあ、それはそれで偏る。そこが 20 世紀型の「教養寄り」みたいな性質としてあらわれていくのかも。
  • サブカルってほらどうしても社会的にならざるをえないから自己正当化が下手糞だよね。