matakimika@hatenadiary.jp

WELCOME TO MY HOME PAGE(Fake) ! LINK FREE ! Sorry, Japanese only. 私のホームページへようこそ!

おいでよ どうぶつの森

旅行写真 | 060102

進行状況を書くと、商店は本日デパート改装工事中であり、自宅は三階建てになっている、はず。はずというのは、確認していないから。現在おれのどうぶつの森は絶賛 Wi-Fi ゲート開放中のまま放置。おれはというと NDS を自室に置いて出先。いそがしい。あそべない。あそべないけど Wi-Fi でゲートあけとけば誰かがおれの村で遊んでくれるかもしれないというゆるい期待。誰かが勝手に村の果物を収穫してくれるかもしれないし、誰かが勝手に村に木を植えてるかもしれないし、誰かが勝手に村の木を切り倒してるかもしれないし、誰かが勝手に村の雑草を抜いてくれているかもしれないし、誰かが勝手に花に水をやってくれているかもしれないし、誰かが勝手に村中にゴミを撒き散らしてくれているかもしれない。これがつまり「自分で遊ばなくてもいいゲーム」という感覚の疑似体験。インスマス村はどうぶつの森におけるおれの村だが、おれの村は Wi-Fi ゲート開放によっておれだけの村ではなくなる。ナトリ氏はインスマス村を釣り場にしてくれているようだし、メロマイ氏はインスマス村の住人と親交を深めてくれているようだ。ああー、おれの NDS 本体に格納されているプレデータが勝手に書き変わっていってくれるというのはなんかラクでいいなあ。べつに果物を持って行かれたりとかしても平気。むしろどんどん持ってけばいいと思う。まあ村一面の木が切り倒されてたらションボリするだろうけど、それはそれでも別にいいやくらいの心境。やりなおせばいいだけの話だから。それはむずかしくないし、時間はいくらでもある。

ゲートが開いているあいだ、おれの時間もインスマス村の時間も勝手個別に流れている。NDS 本体を閉じてから再び開けたときに、目の前にひろがっている景色がちょっと変わっていればうれしい。それはつまりおれが知らないうちにもインスマス村には時間が流れていたことの証拠だからだ。

ヨイドの筒

唐突に羅門祐人「自航惑星ガデュリン」シリーズのことを思い出そうと思って記憶を掘ってみたが、「ガデュリン世界での男性器の隠語は「ヨイドの筒」」くらいしか思い出せなかった。読んだのガキの頃だったから下世話なことしか覚えてないんだよな。というかヨイドの筒同様に女性器の隠語もあったはずなんだけどそっちのほうが思い出せなくてさっきから妙に口惜しい。ふつうにヨイドの壷とかだったっけな。ガデュリンてゲームとか小説とかアニメとかいろいろ出たと思うけどインターネットにはほとんど情報がなくて困るな。あと三巻(?)の主人公が中年おやじだったような気がする。

The Lost World : Jurassic Park

当時 CG が凄かった(←「いまとなってはそれほどでもない」といえるのは現代人類の科学が勝利しつづけた結果でありそれを享受できるおれなどにとってみればありがたい話だ)ジュラシックパークシリーズの二作目。土曜のことだが、こんなすっきりしない映画だったっけ?とおもいつつ TV でやってたので見た。つまらないことはなかったが、見終わったあと、たしか 21 時スタートでいま 23 時過ぎだけどその間おれなにやってたのだろうかという思いは残った。劇場で見て仕舞いにすべき映画だったかなあ。でもおれはショッキング映画が苦手なのでショッキングシーンになるとちょっと視線を逸らしてたりとかした。そういう基本的な地力はちゃんとある。恐竜こわい。

シリーズの感想が気になったので適当に検索。

要約すると「初代はいろいろあるけどとにかく恐竜がすごかったのでグー(平均 7.7/10)、二作目は散漫で半端(平均 4.9/10)、三作目は割り切って作ってあるのでそこを楽しめばよし(平均 5.1/10)」てかんじか。あーなるほど。点数的にも感想文から拾った印象でも「二作目(Lost World)がいちばんおもしろくない」は一致しているかんじ。そうだよな。ちょっとこれはあんまなんというか脈絡がよくわかんなくていまひとつ盛り上がっていいのかわかりづらい映画だったよな。おれもそうおもった。…というふうに自分の感想と世間の評判とを照合して安心するという仕組みは中年化してゆくオタが通過しておかねばならないメタゲームのひとつなので、こういう位置取りを決め打ちしていない(自分の中で特に評価したいとかしたくないとか思っていない領域にマッピングされている)映画を見たときにはなるべくそれをやってあそぶことにしているけど、あれだなーこういう行動はマーケットシェアでゲームを語る人々問題で提示されているパターンと基本的に一緒なので我ながらアレだな。アレだろうとなんだろうと今後はこういうこともやっていかねばオタクが立たんのだ。もうちょっとフランクに小津安二郎氏など参考にしつつ、どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、ゲームのことは自分に従うというかんじでやっていけるようになるまでにはもうちょっと先が長い。

  • ほかはどうでもいいけどいっこだけ気になってるポイントがあって、主人公側陣営の女科学者やカメラマンが特に強く表明し行動していた環境保護意識について、映画制作側は、視聴者にどう受け取ってもらうことを期待(というか想定)しているんだろうか。おれの理解だと「行き過ぎた環境保護意識はトラブルを誘引するよね、だけどまあそういうひとも含んで人類だよね、いろいろ物事は起こっていくけど後戻りはできないね、そうやって自然はなるようになっていくよね、どのみちから来ようと現在はひとつで、未来はわからないね」みたいなかんじかなと受け取ってるんだけど、なんかじつは全然違う理解を想定されてたりしたらアレかなあという気がしなくもない。